アキレスと亀のパラドックス・解決への誘い―そこからみえる哲学的問題

かための哲学

アキレスと亀のパラドックスについて

アキレスと亀のパラドックスとは?

アキレスと亀のパラドックスとは、ゼノンのパラドックスと呼ばれるものの内の1つですね。

(※注. ゼノンは人名。エレアのゼノンを指します。「エレア」というのは地名。昔はよくある名前を地名で区分していたみたいですね。例えば、「オッカムの剃刀」で有名な「オッカムのウィリアム」という呼称の「オッカム」も出身地の名前だそうです。名字を用いず、名前に出身地を付けて呼ぶことで、個人を識別していたのですね)

出典は、アリストテレスの『自然学』です。概要をまとめておきます。

俊足で評判のアキレスの前を鈍足の亀が歩いていた。アキレスは亀を追い抜かそうと、走り出した。アキレスが亀の元いた位置に到達するまでに、亀は前進するため、アキレスの前にいることになる。更に走るアキレスが、その位置に到達した時、やはり亀はそれよりも前進するためにアキレスの前にいることになる。以下、これが無限に繰り返されるため、アキレスは亀を追い抜くどころか、追い付くことさえできない。

当然ですが、この推論は正しくありません。現実世界においては、アキレスは亀を簡単に追い抜けるからです。にも関わらず、一見この推論を否定するのは容易ではなさそうです。

一見正しそうに思える推論が、明らかに現実とは一致しない。この話がパラドックスたる所以です。

 

論駁の可能性

アキレスは何にも追いつけない?

さて、この話がおかしなことはわかりますが、それは私たちが現実を知っているからです。ですが、その推論が間違っているのを「現実とは異なるから」といっても(構わないのですが)、いまいち説得力に欠ける気がします。ですから、まずはこの論が間違っているということを示しましょう。そのために有効な手段として、相手の論理に則った上で、矛盾する結論を導き出すという方法があります。そのために、まずはゼノンの論から導き出される一つの重要な結論を考えてみましょう。

ゼノンの推論から導き出される結論、それは「アキレスは何にも追い付けない」というものです。

アキレスよりも速いものに追い付けないのは当然のことながら、ネコや尺取り虫、蟻やナメクジにいたるまで、亀以外のものでもゼノンの推論は成立します。つまり、一般化すると、アキレスは自分の前を進むあらゆるものに追い付くことができないということになるのです。

カタツムリ君

さて、アキレスはあらゆるものに追い付くことができない、という結論を利用して、ゼノンの推論が間違っていることを示します。そのためにカタツムリ君にご登場願いましょう。

アキレスの前を進む亀よりも遥かに遅い存在として、カタツムリ君を規定します。例えば、アキレスの100メートル前を行く秒速0.1メートルの亀と秒速10メートルで走るアキレスとの間に、アキレスの50メートル先を秒速0.01メートルで進むカタツムリ君がいたとしましょう。亀が元いた位置にアキレスがたどり着くには10秒かかります。この時の位置関係はアキレスの1メートル先を亀が進んでいることになりますが、カタツムリ君はどうでしょう?

カタツムリ君はアキレスが元いた位置から50.1メートル先を進んでいるわけだから、100メートル進んだ今のアキレスの位置からすると、49.9メートル後方にいることになります。

そうなんです。もうおわかりですね?「亀の元いた位置にアキレスがたどり着く」ということが問題の前提として認められている以上、その過程において追い抜いてしまうような任意の存在が規定できてしまうのです。これは「アキレスは何にも追い付けない」という、一般化した結論と明らかに矛盾します。よって、ゼノンの推論は欠陥を孕んでいるということになるのです。

数学的論駁

ゼノンの推論に欠陥があることは、その論理構造から矛盾した結論が導き出されることにより証明されました。しかし、これではゼノンの推論が間違っているということだけが示されただけで、本質的に解決されたとは言い難いように思われます。従って、なぜ間違っていたのか、ということを数学的に明らかにしながら、論を展開していくことにします。

ここで、問題を1つ。芽が出て、1年間で1メートル成長した木があります。この木は、翌年にはその前年に成長した半分の高さだけ大きくなっていくとします。つまり、2年目は0.5メートル、3年目は0.25メートルといったように。さて、この木は1万年後、何メートルにまで成長しているでしょう?

そう、答えは

2-1/210000 メートル

となります。

え?2メートルにもならないの?って感じですよね。そうです。例えば、永遠に成長し続けても、この木は2メートルに永遠に近づき続けるだけで、決して2メートルにはなれないのです。

高校数学を学んだ方には、すぐに答えがわかった方も多いでしょう。極限を求める際に、「収束する」という表現を目にしたことがあるかもしれませんね。「 限りなくその値に近づく」という意味で用いられますが、決して、その値になることはありません。今回の例で言うなら、譬え永遠に成長し続けたとしても、木は2メートルに収束していくだけなのです。

とても不思議な話ですが、ここで伝えたかったのは、有限の中に無限が潜んでいるということ。(※注.この場合、正確には「無限」ではなく「無際限」と表されることが多いです)

さて、話を戻しましょう。実は、アキレスと亀のお話にも同じことが言えるのです。話をわかりやすくするために、アキレスが秒速10メートルで、90メートル先を秒速1メートルで走る亀を追いかけるとしましょう(え?亀にしては速過ぎる?そこは置いといて)。

亀が元いた位置、つまり90メートル進むのに、アキレスは9秒かかりますが、その時、亀は9メートル進むことになります。更に、アキレスが9メートル進むのに0.9秒かかりますが、その時、亀は0.9メートル進むことになります。更に、アキレスが0.9メートル進むのに……と話が進みますが、これを際限なく続けるとどうなるか?

アキレスや亀の進む距離は以下のように求められます。

90+9+0.9+0.09+0.009+…

=99.999…

上記の小数点以下は、際限なく続くので、この値は100に収束すると言えます。つまり、数学的には、アキレスは走り出してから100メートルの地点で亀に追い付くことになるのです。

時間についても求められますが、距離のときと全く同じように求めると、10秒に収束することがわかります。つまり、数学的には、アキレスは走り出してから、10秒後に亀に追い付くことになるのです。

以上のことから、アキレスが亀より速く、追い付く時間乃至距離が有限の時間に収束するかぎり、アキレスが亀に追い付けないなどということはありえないのです。

(※注.  より数学的に一般化した式でも、アキレスが亀に追いつく距離を計算する事もできます。アキレスが亀に追いつく距離をSとし、アキレスが亀のN倍(N>1)の速度で走るとします。はじめに、亀がアキレスのXメートル前方にいるとすると、「S=NX/(N-1)」が成り立ちます。つまり、アキレスはNX/(N-1)メートルの地点で、亀に追い付くことになります)

 


「アキレスと亀」が示唆する諸問題

「カタツムリ君」の登場により、ゼノンの推論が自家撞着に陥ることが証明されました。そして、数学的に推論過程のどこがおかしいのかも示されたように思われます。

勿論、他にもゼノンの推論の間違いを指摘することも可能でしょう。例えば、「動の理論を静の理論によって説明しようとしている」と言っても良いかもしれません。

アキレスが亀を追い抜く過程は、あくまで連続的なのであって、亀が元いた位置にたどり着いて、一旦止まってからまた先にいる亀のいた位置までの距離を進むというような不連続的なものではありません。実際は、アキレスは一連の動作の流れの中で亀を追い抜くのです。ゼノンの推論は、動的な事象を静的に説明しようというところに無理があるのです。

いずれにしろ、アキレスと亀のパラドックスは解決されたように思いたいところです。しかし、話はそう簡単にはいきません。なぜなら、そこから様々な問題が派生するからです。例えば、「時間とは何か?」「無限とは何か?」「連続とは何か?」といった問題です。

数学的に示したのは、推論過程に内包される「永遠」の否定です。「アキレスは亀を追い抜く過程で無限の行程を経なければならないので、永遠に亀を追い抜くことはできない」というのが、ゼノンの推論の要諦ですが、アキレスが経なければならない行程の無限性は、有限内に内包された無限であって、それ故にその有限性を超えた永遠とは同義的とはならないのです。

こう説明されると、納得するように思われるかもしれませんが、果たしてそうでしょうか?数学的に示した論駁が暗黙の了解としているのが時間の絶対性です。

距離であれ時間であれ、指標として客体化された「ものさし」が有限なのだから、その内に含まれる無限も逆説的に有限でなければならない、と数学的論駁の推論過程では認められていますが、その前提にある時間観は「客体化されうる絶対性」なのです。

いつ、どこにおいても、誰にとっても同じ流れとしての時間がある。それが時間の絶対性です。ですが、果たして時間とはそのような絶対的なものなのでしょうか?寧ろ、『相対性理論』にみられるように、時間とは相対的なもののように思われます。だとしたら、アキレスの有限とされる行程に潜むある種の無限性の内に、永遠性が内包されていても何らおかしくはありません。そう考えると、かの数学的論駁は成り立たなくなるのです。

動の理論と静の理論の説明にしてもそうです。この説明が前提とする「連続」の概念が示されないかぎり、説得力のある説とはなりえません。

とは言え、カタツムリ君の登場によって示されたように、ゼノンの推論が間違っているということには変わりありません。ただ、この「アキレスと亀」から派生する諸問題の解決をまたなければ、この問題は十全的に解決されたとは言えないのではないでしょうか?

ゼノンのパラドックスは、哲学的諸問題へと導く道標のような役割を果たしているという意味において、実に有意義なものだと言えます。それが、長年人々を惹きつけた魅力なのかもしれません。

ひとまずはこれで終わりとなりますが、ここからお話は、時間や連続や無限といった難解にして、より根源的な問題へと向かっていくこととなります。もし、興味があるようでしたら、そちらの方もご覧いただければ幸いです。また、パラドックス関連に興味のある方は他の記事も読んでみてください。

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by    tetsu