トルストイの名言『光あるうちに光の中を歩め』について―ライブハウスの光の中で、今僕が思うこと

エッセイ

光を眺めながら

 

地下への階段を下りていく。響くのは自分の足音だけ。コンクリートの壁が迫ってくるかのような息苦しさを覚える。薄明かりの中で散りばめられた闇がひやりと冷たい。歩を進めると、やがて分厚い扉が立ちはだかる。小さなスポットライトに照らされて、少し誇らしげにも見える。その扉の取っ手を回すと、ガチャンと大きな音が響く。世界を切り換える音。巨大なリボルバーの撃鉄を起こす音のよう。扉を少し開けると、中で行き場を失った音の流れが僅かな隙間から弾丸となって飛び出してくる。別世界への扉が開く。

けたたましい音が響き渡る。目まぐるしい光の陰で、シルエットが蠢く。人混みの間をすり抜けて左手にあるカウンターに辿り着くと、硬貨と引き換えにドリンクを受け取る。グラスに口を付けると、ライムの香りが口の中で溶けていく。シガリロに火をつける。光の中で煙が踊る。

ぼんやりとステージを見やると、名も知らぬバンドが演奏を続けていた。腹に響くベースの重低音と、脳裏に響くスネアの音が心地良い。彼らは必死で何かを演奏していた。ベースやギターをかき鳴らし、ドラムスを叩いて、何かを叫んでいた。だが、何を訴えようとしているのかはわからなかった。音割れしているため、歌う言葉もはっきりと聞き取れやしない。仮に、聞き取れたところで、その何かは通じなかったかもしれないが。

スポットライトに照らされて、彼らは輝いていた。それを闇を貪りながら、眺めているのが心地よかった。その時、ふと既視感に襲われた。というより、これに似た感覚を覚えたことがある。

 

薄暗いカフェの中で、シエスタ代わりに、砂糖をたっぷりと入れたコーヒーを飲んで一息ついていた。トルストイの短編を片手に窓の外をぼんやりと眺めていた。よく晴れた日の午後だった。

店内に満たされたマイルス・デイヴィスの奏でる音。マホガニーで作られた柔らかなテーブルの手触り。コーヒーの香り。すべてが満たされていた。そんな中、視界に飛び込む光の風景に不思議な感情を喚起された。

何の変哲もない風景だった。道を挟んでコンクリートの壁が見える。電柱の傍らには誰の物とも知れぬ自転車が置かれている。車も通らない閑静な通りを、笑顔で手を繋ぐ恋人が、時折、春の暖かな日差しに包まれながら通り過ぎていく。茶色い毛並みの猫が窓の外を横切る。牧歌的な無声映画のワンシーンのように、窓の外には日常が映し出されていた。

僕はその風景に言い知れぬ不安を覚えた。穏やかな日常を対象化することで、独り取り残されたような感覚に陥るものではなく、望ましいものが必然的に内包している終わりを予感させる類のものでもない。不安と表現したが、それは決してネガティブなものではなく、寧ろ、あたたかで心地の良い感情だった。

あの感情は一体何だったのか?今では少しわかる気がする。

 


光あるうちに光の中を歩め

 

レフ・トルストイは晩年の作品『光あるうちに光の中を歩め』で、キリスト教的な道徳精神でもって、生を送ることを説いた。元になったのは、旧約聖書にあるあまりにも有名な言葉。

 

光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。

 

キリスト教が迫害を受けていたとされるローマ帝国時代に、それ故皮肉にも純粋な教義として生きていた原始キリスト教の教えの中に、人生における幸福を見出そうというお話。ややプロパガンダ色が強いものの、幸福とは何か、という哲学的とも言える問題を考えさせられるには良書であろう。

この本を読んだ時、思い描いたのは、何もない暗闇の中で、一筋の光の道を突き進む姿。そんな姿を想像したからなのかもしれない。言い知れぬ不安に襲われた。朧気ながらも、それは心を捕らえたまま、決して離そうとはしなかった。15年という年月を経た今でも。

 

光の中を歩むには強い精神力がいる。常に視界は闇に晒されるから。光があれば陰が生まれる。そこに潜む闇が心の奥底にある恐怖を煽ってくるのだ。

恐怖の対象でしかない鬼は、「陰(おん、おぬ)」から生じたと言われるくらい、人は陰という光の届かぬ闇の中に恐怖を見出す。それは人間の豊かな想像力の産物かもしれないし、昼行性の動物である人の本能に根差す夜の闇に対する恐怖からくるものなのかもしれない。にも関わらず、闇の中にいる逆説的な心地良さを否定することはできない。人間がいかに闇に対して本性的に恐怖する生き物であったとしても。

 

闇にいると何も見ることもないし、何かに見られることもない。見る見られるというある種の暴力性から守られるという安心感がある。何より、光を光として見ることができる。そこにこそ救いがあるのではないか。

それに対して、光の中にいるということは闇と向き合わなければならない。それは光を光として見るのと同様に、闇を闇として見るということ。そして、そこでは光が光として見られることはない。闇の中にいれば、光が対象化されるが、光の中にいれば対象化されるのは闇である。そこでは闇を見て、闇に見られるという暴力性に晒されることとなる。闇に見られるという暴力性の得体の知れなさが恐怖となり、そのような状況への可能性が不安へと繋がるのである。

 

何かを対象化すると、それは心に顕在化する。光の中を歩むということは、闇を対象化させ、心に顕在化させながら、進むということである。光を心に抱きながら生きていくことはできよう。だが、心に闇を抱きながら、しかもその闇を抑えながら生きていくのは至難である。

ならば、と言う者がいるかもしれない。闇を生み出さぬほどあまねく照らすほどの強い光の中を歩め、と。それが一番恐ろしい。目も眩む光の中では、私たちは何も見えなくなる。眩し過ぎる光は闇と同じ。希望の光を見ることができないという意味では闇よりもたちが悪い。

 

強すぎる光、その光故に、私たちは盲目となるのである。

 

「光あるうちに光の方へ歩め」と言うのならわかる。光を目指しながら、心に光を抱いて生きていくことならできよう。しかし、闇を見て、闇に見られるという恐怖と戦いながら、しかも心に顕在化する闇を抑えながら生きていくことがどれほど困難かは想像に難くない。それでもトルストイよ、「光の中を歩め」と言うのか?

 


闇を見つめて

 

いつかカフェで見た窓の外の風景は、眩し過ぎるほどに輝いた日常だった。店内は視認できるにも関わらず、そこが暗闇の中であると錯覚するほどに。そして、その時感じた不安は、極めて逆説的なものだったのだと今なら頷ける。あの眩しい日常の中に自分が溶け込んだところを想像することで、闇を対象化するところにいるのだが、それでも本来好ましい光の中にいるということで感じられるあたたかな不安。でも、実際は、本来忌むべき闇にいるにも関わらず、光を確かめることができるという状況に置かれた自分の立ち位置に対するあたたかな不安。2つの不安を抱えながらも、光を見つめることのできるほんのりとしたあたたかさがそこにはあったんだ。ひょっとしたら、そのあたたかさには、光に対する憧憬も含まれていたのかもしれない。

 

既視感の正体が何なのかがわかった。思い出せない不快感というのは、割と後まで尾を引く方なので、少し安心した。ステージ上での演奏が終わり、次の出演者が準備をしている。先ほどまでの賑やかさが嘘のようだ。それでも、先ほどまでの喧騒の余韻が耳の奥で響いている。グラスに口を付けると、氷が涼やかな音を立てた。

やがて、BGMが流れ出し、少し緊張した空気が幾分緩んでいくのを感じた。周りからは囁くような微かな話し声が聞こえてくる。漂う煙の中、所々で赤い光が明滅を繰り返す。皆心地よさげに闇に身を潜めている。そんな気がする。

 

突然、束の間の静寂が訪れる。柔らかな照明が消え、ステージ上のスポットライトだけが、暗闇を貫いた。次の演奏が始まる。僕はただそれをぼんやりと見ていた。10年以上も前に、自分がステージ上にいた事を思い出しながら。

あの時、眩しく浴びせられたスポットライトは観客を顔無しにしていた。その時も時折、不気味な暗闇の奥底に引きずり込まれそうな感覚を覚えながら、何かに抗うように歌っていた。ギターのリフが奏でられ、ベースのスラップ音が追随する。

 

“Blue  for  you  is  red  for  me …”

 

闇に浮かぶシルエットが揺れる。僕たちの奏でる音に共鳴しながら。闇が僕たちの音で満たされていく。それでも、消えることのない漠然とした不安。

 

“Sunlight  cannot  reach  at  the  deep   sea,  so  we  were  born  in  the  darkness.”

 

あの時見つめた闇の先に、今僕はいる。

 

 

by    tetsu