哲学のすすめ―哲学はやさしく誰にでもできる!哲学と諸学問の違いについて

確かな真理を求めて

哲学という言葉は、ある種の人たちには、とても魅力に満ちた響きを持っている。それは、まるで、世の真理を携えた智の体系に対する、理性の憧憬のようなものだ。難しそうにも聞こえるけど、若かりし頃に、インテリジェンスへの憧れを抱いた人は少なくないんじゃないかな。物事の本質に迫ろうとするその試みは、日常経験しているような世界とは異質の、それでいて、惹かれるような新鮮さをもった美しい広がりの中へ私たちを誘う。でも、綺麗なことばかりじゃない。

物事の本質に迫ろうとするその試みは、必然的に理性の深淵へと私たちを引きずり込むこともある。時には何もない荒涼とした暗闇の中で得体の知れぬ何ものかの慟哭を聴き、また時には上下左右もない目眩を覚える歪みの中で日常によって培われた感覚を嘔吐する。形而上学の分厚い雲によって束ねられた一条の光を求めては、多くのものが幻想であると知る。

確かなものなど何もないのか…

そう、哲学者とは確かさを求める求道者。風車の怪物に立ち向かうドン・キホーテのように、端から見ると正気の沙汰とは思えない。だが、彼は知る。自分ではなく、世間の人々こそがドン・キホーテなのだと。

大きさが様々に違う、しかし、そんな砂粒しかない無機質な原野を彷徨し、いつかはヤコブの階段が現れることを信じてやまない。いや、本当はそんな救いなど求めていないのかもしれない。彷徨うという、まさにそのこと自体を楽しむような営み。それが哲学。

あらゆる価値観や常識は意味を持たなくなる。世界の色は失われ、やがて無感覚へと落ちていく。観念や概念、意味や価値。そういった一切の色合いが爆縮を起こし、実在的な世界から剥ぎ取られた後、残滓として残された確かなものをデカルトは見出した。自我である。

ソクラテスを起源とするなら、デカルトまでの期間はおよそ2000年。ここに至って初めて、哲学は確かなものへと辿り着いたのである。

 


哲学の原義

「哲学(“philosophy”)」の原語となるギリシア語の“philosophia”という言葉は「知を愛する」という意味である(“philo”が「愛」を、“sophia”が「知」を意味する)。だから、哲学とは知の探求を意味するものであって、確からしさ云々ということに限った話ではない、などとおっしゃられるかもしれない。ところが、そうはいかない。なぜなら、知には「確からしさ」が含まれるからである。

知には確からしさが求められる。それは尤もな話で、確かでない知に一体どれほどの意味があるのだろう。確かでない知など、夢と同じであり、酩酊状態で見る幻覚と何ら変わりない。だから、知には確からしさが要請され、それ故、確からしさを持たない「知」は知とは呼ばれないのである。

古代ギリシアでは、哲学という言葉は学問一般を意味していたという説明もなされることがある。カントなんかは物理学、倫理学、論理学を哲学と分類することに吝かではなかったらしい。ハイデッガーなどは存在論を哲学としたと言われるが、こういった区分を鵜呑みにするわけにはいかない。なぜなら、哲学には、本義としての「知を愛する」心に突き動かされた真理の探求ということ以上に、規定されうる特殊な本性(ほんせい)があるから。即ち、前提を疑うということ。

 


哲学であるということ

哲学と諸学問との違い

世界は何からできているのか?

世界はどのようにしてあるのか?

すべてはこのような問いから始まった。解決を図るべく、日夜多くの者が知恵を絞った。実にゆっくりではあるものの、少しずつ世界は体系化されようとしていった。連綿と受け継がれるこのような知的営為を人は哲学と呼んだ。

始まりが同じとは言え、知の体系は全く別の進化の過程を辿ることとなる。ある者は数と調和から成り立つと考え、数秘術が生まれた。やがて、現実世界との繋がりを失った、完全に抽象化された数による記述の体系が発展し、数学が生まれた。一方で、火や水や土や空気などの元素により成り立つと考える者がいた。やがて、最小単位の粒子から成り立つと考える者が現れ、冶金、錬金術を経て、現代の化学へと至る。

どちらも哲学と呼ばれる知的営為から派生し、展開していった特殊な知の系譜である。高度化した社会の要請により生まれたその他の学問も、哲学から生まれた物理学、数学、化学、論理学などに基礎を置く。そのような意味において、哲学は万学の父と言える。

では、哲学と諸学問にはどのような違いがあるのだろう?

当然だが、理論には出発点がなければならない。例えば、数学には公理と呼ばれる根本命題がある。それは数学の記述が展開される上で、必要不可欠な理論の土台となる考えで、あらゆる数学理論の証明の根拠は遡及すると公理に至る。言わば、公理とは無条件に受け入れられなければならない前提である。

化学や物理学にも、その理論の土台には、無条件に受け入れられなければならない前提がある。粒子、力、エネルギーの存在などがそうである。それらなくしては化学や物理学は語れない。

だが、哲学にはそういった前提がない。哲学はすべてを疑いうる。例えば、神学では神ありきだが、哲学では神の存在を疑うことがある(その結果、神の存在を肯定するか否定するかはわかれるところではあるが)。

数学、化学、物理学などは、数、力、粒子、エネルギーなどによって世界を解釈しようとする試みであるが、哲学にはそのような基準がない。寧ろ、そのような基準が何なのかを探求しようとするのが哲学なのである。そこにこそ、哲学の自由と魅力があると思う。

 

哲学研究と哲学者(哲学書)研究

哲学がしたいなら大学へ行くべきではない。あそこにあるのは「哲学研究」とは名ばかりの「哲学者研究」しかないから。

哲学の本来の魅力とは、無条件に受け入れなければならない前提がない故の自由な思考にあると思う。だから、既成の価値観に捕らわれることなく、物事をみようとするところに新たな発見があるのだ。

確かに、過去の哲学者の著作を繙くことは有意義と言える。結果としての諸概念の記述のみならず、どのようにして思索を深めてきたのかを窺い知ることもできよう。だが、それに終始してしまうと、それはもはや哲学とは言えない。それは哲学から派生した理論の一つに過ぎず、アリストテレスのそれならばアリストテレス学、カントのそれならばカント学といったように、哲学とは別の一つの知の体系を成してしまっているのだ。

そして、悲しいことに、大学(院を含む)における研究はそのような知の体系としての学問以外には認められない。「自由」についての研究も、ミルを始め、カント、レヴィナスといった哲学者の著作を読み、それをまとめて自分の意見を申し訳程度に添えて(それすら許されざる風潮にあるが)、論文に仕上げるだけ。

そんなものが哲学と言えるのか?

違う。こんなことがやりたかったわけじゃない。僕が学生の時は、このような現実と理想のギャップに苦しめられたものだ。今思えば、若かった。仕方ないことなのだ。なぜなら、大学には学問としての哲学があるのだから。学問とは、無条件に受け入れなければならない前提を土台として築き上げていった知の体系である。そのあり方は、哲学のそれとは真逆なのだ。

夏の盛りに雪が降るのを、ただ空を見上げて待っていた。若かりし己の未熟さを知る。

 


哲学をするということ

哲学をするということは、前提を疑うこと。始原還元的思考と呼ぶ者もいる。物事の始まりに遡及してまで思考するということ。与えられた枠組みの中で思考するのではなく、思考の対象がそもそもどうだったかを問うのである。

そんな枠組みに捕らわれない哲学という自発的な思考に身を委ねるのは心地良いものだ。夜の大海原に独り取り残されたような絶望的な不安を覚えることもあるけど、自分の足で歩けているという確かな感覚が嬉しい。

勿論、過去の哲学者の著作を読む時だって、新しい発見はある。カミュを読んだときは衝撃だったし、デカルトを読んだときは感心したものだ。でも、それは自分で見出した真理ではない。哲学というのは、あくまで自分の頭で考えて、真理に至ろうとする試みだと思っている。そこでは答えにではなく、経験自体に価値があるんじゃないかな。

精神的充足以外に、何か役に立つのかと言われれば、何もないのかもしれない。でも、根本に立ち返るというのは無意味ではないと思う。お金を稼ぐのは大事なことだけど、そもそも何のために稼ぐのかってことを忘れると本末転倒になってしまう。生きるためってのは勿論だけど、愛する人を守るためであったり、お金を使ってできる何かによって精神的充足感を得るためであるのなら、お金を稼ぐことで愛する人を(あるいは、その人との時間を極端に)失ったり、精神的に消耗してしまうのであれば意味がない。

そもそもの根本にあるもの(前提)は、自分がいつかは無条件に受け入れなければならないものなのだから、きちんと吟味する必要がある。そこへと向かう営みが哲学なのだ。

ただし、注意しなければならないのは、独善に陥るということ。何の枠組みも前提もないのだから、そういう危険性は完全に排除出来はしない。その危険性を十分認識した上で、自分が認められる根源へと辿り着く。そういう哲学的姿勢は日常生活においても有意義だと思うし、何も「学問的哲学」だけに許された特権ではない。

生きている人の数だけ哲学の形はあると思う。それに、哲学というのは難しいことじゃない。だから、自分にとって大切な何かを自分の目で確認できるような、そんな旅に出てほしい。きっと、その何かはあなたを待っているから。

by    tetsu