怒ると叱るの違いについて―やる気を削がない指導法

人を成長させるためには、指導において、「叱る」ことは欠かせない。学生であれ、社会人であれ、年齢を問わずあてはまることである(場合によっては、喜寿を超えた年配者にも言える)。従って、きちんと叱ることが、学生に対しても、部下に対しても、重要なのだ。

私はこれまで、20年近く、様々な人間を指導してきた。教育関係では10代未満の小学生から大学生、社会人まで。カルチャースクールでは、10代から80代半ばまでの方の指導に携わってきた。また、その中で、様々な指導者も見てきた。その経験から言うと、指導に向いていない人にはある特徴がある。それは、怒ってばかりで叱ることができていないということである。

 


「怒る」と「叱る」の違いについて

「怒る」と「叱る」を混同している人が多いと感じる時がある。残念ながら、辞書についても、それは言える。例えば、デジタル大辞泉には「怒る」には次のような説明が与えられている。

 不満・不快なことがあって、がまんできない気持ちを表す。腹を立てる。いかる。「真っ赤になって―・る」
 よくない言動を強くとがめる。しかる。

「2」の意味をご覧いただきたい。「しかる」とある。つまり、「怒る」と「叱る」は同義的と見なされているということである。だが、これはいかがなものか。あくまで個人的見解に過ぎないが、人を成長させるための指導という観点から、両者には明確な違いがあると言える。

では、「怒る」と「叱る」にはどのような違いがあるというのか?

「怒る」とは、辞書に書かれてあるように、「不満・不快なことがあって、がまんできない気持ちを表す」ことである。つまり、感情の表出と言ってもいいだろう。そこには、感情を表に出すことで鬱憤を晴らすという、いわば精神を整える働きがある。ただ、その感情の表出が、「相手を責めたり、非難する」という仕方になるため、相手の立場に立つと、あまり好ましいものとは言えない。

人間である以上、怒りに身を任せてしまうこともあるだろうが、人を指導する立場にある者がそうであってはならない。なぜなら、場合によっては、指導する生徒や部下のやる気を削ぎかねないからだ。その場はスッキリしたとしても、それが指導した人間の成長に繋がるかといえば、疑わしくなる。指導するということが前提にあるのなら、怒り任せの指導は、あまり誉められたものではないだろう。

一方、「叱る」ということはどういうことか?「叱る」という言葉についても、辞書で調べてみよう。(引用元:デジタル大辞泉)

目下の者の言動のよくない点などを指摘して、強くとがめる。

「強くとがめる」と書いてある。正直なところ、この説明にも得心がいかない。なぜなら、「強くとがめる」という言葉には、「相手を責める・非難する」というニュアンスが込められているからだ。

人を成長させるための指導という観点から述べると、「叱る」という行為には、「相手を責める・非難する」という含みは持たせない方が良い。というのも、「責める・非難する」と、自己防衛のために心を閉ざしてしまうか、つっかかってくる人がいるからだ。これは、どれほどの信頼関係を築いていたとしても言えることである。

思い出して欲しい。例えば、恋人や家族のように気の置けない仲であっても、非難がましく責められたり注意されて、ムッときたりしたことがないか?穏やかな口調で注意されれば、「ゴメンね」で済むことも、言い方一つで口論に発展したことはないか?私を含めて、多くの人が経験してきたと思う。

人を成長させるために指導することを念頭に置く場合、叱る内容を受け入れてもらわなければならない。だから、心を閉ざされたり、噛み付いてきたりされると具合が悪い。譬え、正論で屈服させたとしても、叱られた人間は、心からそれを受け入れることはない。どれほど叱る側が正しくとも、場合によっては、ロジハラだなんて騒ぎ出す人間もいる。そうなってしまっては、本来の目的を達成することはできなくなる。

別に、自己防衛する人間が悪いということではない。人間である以上、誰にでもそういう本能的な部分はある。だから、大切なのは、そういう本能的なところを刺激しないように事を運ぶことなのである。

話が、「叱る」という言葉そのものについてというよりも、「叱り方」についてのものになってしまった感は否めないが、生徒や部下の叱り方はそれほど慎重にしなければならないということだ。

これで、両者の違いがご理解いただけただろうか。「怒り」は感情だが、「叱り」は感情ではない(そうあってはならない)。「怒る」のは自分のためだが、「叱る」のは相手のためである。「怒り」には激しく動的な精神状態があるが、「叱り」には穏やかで静的な精神状態がある。両者は一見似ているが、実は、捉え方によっては対極的な行為なのだ。

 


「怒り」のデメリット

悟りをひらいた者でない限り、怒りを完全に棄て去るのは難しい。人間である以上、怒りによる感情の噴出は抑えがたい場合もある。とは言え、気分のままに、怒りを表に出しても、あまり有意義とは言えない。確かに、少しはスッキリするのだが、そういったメンタルコントロール以外でのメリットを考えても、思い浮かばない。特に、指導面においては。

そもそも、怒っている人を見たら、どうするだろう?その人の怒りに真摯に向き合おうとするだろうか?人によって違うかもしれないが、少なくとも私はしない。なぜか?メリットが何もないからだ。怒っている人は感情を噴出させている。それは、理性とは対極的なことだ。だから、話が通じない。理路整然と話すことなどできはしない。怒っている人は、基本的には自分が全面的に正しいと思っている。従って、合理的な問題解決が図りにくい。問題解決が図れないということは、その人の負のエネルギーを受け止めなければならないということである。怒られるということは、それ以外の何事でもない。そこに生産的なコミュニケーションの余地はない。負のエネルギーを受け止めると、こちらの精神が無駄に消耗する。しかも、生産的な何かが得られることも少ない。それにより、さらに精神は消耗する。オブラートに包んで言うと、「何も良いことがない」ということになる。そうだとしたら、多くの人は、怒っている人に寄り付かないよね。

或いは、自分が感情のままに怒られた場合を考えてみよう。そのような避けようがない状況でも、やはり真摯に向き合うということは少ない気がする。怒られて、まず思うことは、全面的にこちらが悪ければ「申し訳ない」となり、そうでなければ「嫌だなぁ」か「面倒くさいなぁ」といったことではないだろうか?であるなら、怒られる人が第一に思うのは、「どうすれば怒りをかわせるか」ということになる。そんな状況で、伝えるべきことを伝え、理解してもらい、その上で受け入れられるということがうまくいくだろうか?怒っている人間の感情の噴出によるメンタルコントロールが、第一義である以上、難しいと言わざるをえない。

前にも述べたが、何より大切なのは、 指導する相手に、「間違って行われたところの何がマズくて、どうすれば改善されるか」を理解してもらい、受け入れられることである。でなければ、その人は同じ過ちを繰り返すことになりかねない。これでは指導の意味がない。

怒ることのデメリットはもう一つある。それは、「相手が萎縮する」である。生徒や部下が萎縮するとどうなるか?答えは「何もしなくなる」である。怒られた側の人間の思考は次のようになる。

「 怒られたくない→何かをすれば、怒られるかもしれない→だったら、何もしない 」

これでは、生徒や部下の「自分から積極的に何かをしよう」という主体性が育つわけがない。従って、あまり成長も見込めなくなる

 


やる気を削がない指導法

以上のように考えると、怒るということには、

大事なことが伝わりにくく、円滑なコミュニケーションが図りにくい

相手が萎縮するため、主体性を奪いかねない

というデメリットがあると言える。どちらも指導効率を下げるもので、生産的とは言い難い。だから、指導する場合には、怒るのではなく、きちんと叱ることが重要となる。

その際、多少言葉が辛辣になっても構わないと、個人的には思っている。でも、決して、声を荒らげたり、感情的になってはいけない。受け入れられるためには、何がマズかったのか、道理に則して説明することが、最低限求められる。

そして、叱る場合に気をつけなければならないことがある。それは、非難がましくなってしまうことは仕方ないとしても、その矛先が相手の人格に向けられないことである。咎められるのは、相手の人間性ではなく、あくまで行為にとどめられなければならない。でなければ、いらぬ反撥を招くか、素直で真面目な人であれば、心を挫いてしまうことにつながりかねないので。

感情をぶつけて怒ることなく、行為について理路整然と叱るということは重要だが、それとは別に、指導面に関して、もう一つ重要なことがある。それは、なるべくネガティブな発言をしないということ。「どうせ無理」とか「できない」とか「どうしてこんなこともできないんだ」とかネガティブなことを言っても、何一つ良いことはない。逆に、やる気を削いだり、できないという意識を植え付けることで、その人の主体性を奪うことにもつながりかねない。だから、「どうしたら目標が達成できるだろう」とか「失敗したのは何がマズくて、同じ過ちをしないためにはどういうことに気をつけたらいいか」といったような、これからのことに活かせるような指導を心がけた方が良い。もし、逆の立場だったら、ネガティブなことばかり言う上司や指導者と付き合いたくないよね。これは、きっと多くの人が思うところだろう。

細かい話をすれば、他にも色々とコツがある。例えば、相手を注意する場合、笑いを持ち込むとか。社会人ともなると、理路整然と穏やかに話をすれば、多くの人は聞き入れてくれるが、反抗期にある思春期の子供ともなればそうはいかない。のっけから注意すると、相手は身構えて、話を聞く姿勢ができなくなる。だから、笑いのツッコミを入れるような感じで注意すると、以外と聞き入れてくれる子供が多いと思う。笑いの力とは偉大だと感じる。経験から言える率直な感想だ。

しかし、こういったことは、誰にでもできるというものでもないだろう。指導者にも個性というものがあるし、それ故に指導の仕方も様々だ。だから、自分に合った指導法を考えてみて欲しい。でも、やる気を削がない指導を心がけることを忘れずに。感情的にならないこと人格攻撃をしないこと。そして、ネガティブな発言は控えること。指導する人間は、もし自分が逆の立場だったら、して欲しくないことを考えてみよう。相手を思いやる。結局、それが、何よりも大切なことだから。

by    tetsu