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奇妙な記者会見
先日、世界四大大会を連続で制覇した大坂なおみ選手が、アジア人で初めて世界ランキング1位に輝いた、とニュースで報じられた。実に素晴らしいことだと思う。彼女の人間的な魅力も相まって、連日紙面は彼女に関する報道で持ちきりだ。だが、そんな中、気になる記事をみた。記者会見において、ある記者が日本語での回答を要求した、というのである。
このニュースを知った時、心の中に何だかモヤっとしたものが生まれたというのが正直なところ。というのも、なぜその記者は彼女に日本語を要求したのかがわからなかったから。
偉業を成し遂げた人間に対する記者会見というのは、その人の業績や人間的魅力に対して世間が知りたいと思えるような事柄を掘り下げられる絶好の機会でないか。それは敬意をもって行われるべきだし、記者はいわば世間の人たちの代弁者として質問が許されるものだと、僕は思ってる。にも関わらず、肝心の内容についてではなく、その伝達手段をわざわざ指定して訊くことに何の意味があるのだろう?
本当に質問する内容について有意義な回答を得たければ、当然、回答者の意に添った形で進行させなければならない。回答者が、日本語が適切だと思うなら日本語で回答するだろうし、英語が適切だと思うなら英語で回答するだろう。
ある政治家が記者会見でアウフヘーベン(元は「止揚」を意味する“aufheben”。)というドイツ語を用いて話題になったのは記憶に新しい。それがヘーゲルの弁証法における正しい意味合いで用いられたかどうかはさておき、ある状況を伝えるには適切であると回答者が判断したのだから、それはそれで尊重されなければならない。それが回答者に対する敬意というものではないだろうか?
それに、場合によっては、その言語でしか伝えられないものというものもある。例えば、ライプニッツのいう「モナド」(“monad”)という概念は「単子」と訳すと、ニュアンスが異なってみえる。もともとが日本語で考えられた概念ではないのだから、それを無理やり日本語にすると、零れ落ちるものがある。それは、ある形に整えられたクッキーの生地を、更に別の型でくり抜くようなものだ。ある言葉で伝える意味内容には、その言葉でしか伝わらない微妙なニュアンスというものがある。それは何も哲学的概念のような単語レベルの専門用語に限った話ではない。状況や心情表現を含む一切の伝達内容についても言えることである。
特に、優れたもの、より良いものを突き詰めていこうとすると、実に細やかで繊細な事柄が問題となることが多い。本当に美味しい料理にアンバランスな調味料をわずかでも加えたらどうなるか?宇宙服に少しのほつれがあったら?芭蕉の俳句の文字を助詞・助動詞レベルでも変えてしまったら?いずれも台無しになることは言うまでもない。やや大袈裟かもしれないが、記者会見における回答にも同じ事が当てはまるんじゃないかな。
世界のトップアスリートの体験や心情を表現した言葉はとても貴重なものだ。それが不慣れな言語使用によって失われるのは勿体なくはないか?確かに、英語で回答された内容を日本語に翻訳する過程で失われる些細なニュアンスはあるかもしれない。これは言語が避けては通れない宿命のようなものだ。でも、それが極力ないようにプロの通訳や翻訳家の方がいる。その表現の精緻さ、確かさは、そもそも不慣れな言語使用によって回答された表現の比でないことは言うまでもないだろう。
以上のように、回答者に対する敬意という点においても、表現内容の正確さという点においても、不慣れな言語使用による回答を要請するということには、個人的には合理性は感じられない。同じ事が良しとされるなら、質問者である記者にも同じ事が求められても然るべきじゃないかな。回答者に「質問はサンスクリット語でお願いします」と言われれば(別に英語でも古語でも構わないけど)、どう思われるだろうか?同じようにモヤっとするのは否めないだろう。
国民としてのアイデンティティ
アスリートに求められる国民性
違和感を感じるのは何も今回の騒動に限った話ではない。ワールドカップやオリンピックにおいても、である。
何かと感じられる「日本」、「日本人」といった枕詞。勿論、同じ日本人として日本人選手の活躍が嬉しくないわけではない。羽生結弦選手が金メダルを取れば嬉しいし、高梨沙羅選手がより遠くへ羽ばたくことを期待している。イチロー選手が現役で頑張っている姿には心打たれるし、サッカー日本代表チームがワールドカップで活躍していると励まされる気もする。もっと狭い意味でも、同じ関西出身ということで、たまに新聞のスポーツ欄を開けば、阪神やオリックスの順位を目で追う自分がいる。ええ、六甲おろしだってソラで歌えるさ。このような地元愛は多くの人間が持つものかもしれない。それにしても、かの枕詞はあまりにも前に出過ぎてないだろうか?
人生で10回近くもオリンピックに触れてれば、耳にタコもできそうになる。「頑張れニッポン!」、「これでニッポンは○○個のメダルを獲得したことになりました!」。嬉しいですよそりゃ。でもね、頑張るのはニッポンじゃない。各選手です。ニッポンが金メダルを獲得したんじゃない。内村航平選手や室伏広治選手、吉田沙保里選手が金メダルを獲得したんです。そういった偉大なアスリートを生み出した風土や精神性が素晴らしいのはよくわかる。指導者や環境を守ってきた先人たちを含めて素晴らしいことも理解しているつもりです。かく言う僕だってニッポンが大好きです。和に心奪われてます。だとしても、あまりに前面に出し過ぎてやいませんか?
太田雄貴選手が日本フェンシング史上初めてオリンピックメダリストに輝いたことも素晴らしいことだと思う。でも、それは日本人が初めてオリンピックメダリストに輝いたから素晴らしいって言うよりも、メダリストを生み出してはこなかったという意味で、そんな恵まれた環境になかったにも関わらず、メダルを取るまでに成長できた人間的能力とその可能性が素晴らしいってことなんじゃないかな。そして、それを体現できた彼に賛辞を送りたくなる。
スポーツにおいて、ニッポンが第一義的にあるわけじゃない。にもかかわらず、ニュースで言われるのは、大体、「ニッポンの○○選手!」。心情としては痛いほどよくわかるが、そのように呼称し、接することで、各選手に過度に国民性を押しつけていることになっていないだろうか?そのことが変なプレッシャーをかけることに繋がってはいないだろうか?だとしたら、個人的にはあまり望ましいことではない気がする。
国民としてのアイデンティティ
オリンピックやワールドカップなどのスポーツの祭典が、国威発揚としての側面を持つという事実は否定しがたい。繰り返すが、僕だって日本人選手が頑張っている姿を見ると嬉しくなる。でも、それが行き過ぎると、今回のような騒動へと繋がるんじゃないかな。
今回問題となった記者会見で質問した記者にも悪意があったわけではないだろう(そう願いたい)。大坂選手の偉業を讃えたかったのだと思う。でも、同時に、日本人として振る舞ってほしいという、きっと子供のような気持ちが、あのような質問をさせたんじゃないかな。同じ日本人が偉業を成し遂げたのだと。同じ日本人として誇りに思うと。そのような国民としてのアイデンティティを、自己のアイデンティティの拠り所にしたかったのではないだろうか。そのように邪推してしまう。
スポーツには国境がないと思いたい。だから、ボルトの走りを見ては手に汗握り、パッキャオの死闘を見ては興奮を抑えられないでいた。神事の相撲であっても、63連勝した白鵬にも、そして、それほどの偉業を成し遂げた横綱の連勝記録を止めた稀勢の里にも感服した。これらの感動には、偉業を成し遂げた当事者がどこの国民であるかは無関係である。勿論、これはスポーツに限った話ではない。囲碁や将棋、あるいは、学術研究などの世界についても言えることである。
様々な分野でグローバル化が叫ばれている時代であるにも関わらず、不思議な話だ。ひょっとすると、グローバル化の波にもまれて、自身の立つ瀬を見失いがちなのかもしれない。僕のようなちっぽけな人間には、個人としてのアイデンティティを確立させることは難しい。だからこそ、自身の帰属するカテゴリーに自らのアイデンティティを委ねたい気持ちもわかる。だが、それを他者に強要してはならない。
未熟な僕が言うのも何だが、記者の方々には、同じ日本人として誇りに思うよりも、より本質に迫れるであろう質問をできるのは自分だという矜持をもって、事に当たっていただきたい。国民としての曖昧なアイデンティティよりも、そのような矜持の元にこそ、自己のアイデンティティは確立されるであろうから。
そんな気持ちを忘れないようにするためにも、日本人選手としてと言うよりも、一人の才能あふれるプレイヤーとしての偉業に、素直に賛辞を送りたいと思う。大坂選手、おめでとうございます。
by tetsu
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