錆びつけば 二度と突き立てられず
掴み損なえば 我が身を裂く
そう 誇りとは
刃に似ている『BLEACH』第8巻 巻頭ポエムより
こんにちは。プライドの高い人間が苦手なtetsuです。なぜなら、プライドの高い人間は面倒くさいからです。プライドの高い人間は嫌いですが、誇り高き人間は嫌いではありません。この違いは何なのか?今回は、プライドと誇りの違いについてのお話。
目次
プライド(pride)と誇りの違い
プライドとは
プライドとは何か?デジタル大辞泉には次のように書かれています。
誇り。自尊心。自負心。
引用:デジタル大辞泉
「誇り」とも書かれていますが、これは除外しましょう。個人的には、両者は別の意味だと思いますし、それについてお話をしようとしているわけですからね。意味としては、「自尊心」や「自負心」というところでしょう。同様に、「自尊心」を調べてみます。
自分の人格を大切にする気持ち。また、自分の思想や言動などに自信をもち、他からの干渉を排除する態度。プライド。
引用:デジタル大辞泉
心理学的には、 「自己に対して一般化された肯定的な感情」とされるみたいですが、一般的な意味も、大して違いはありませんね。ちなみに、「自負心」は次のように説明されてます。
自分の才能や仕事について自信を持ち、誇りに思う心。
引用:デジタル大辞泉
どちらについても言えるのは、自分に対して、肯定的(良しとすること)に思う気持ちだということでしょう。
誇りとは
誇りについても調べてみましょう。
誇ること。名誉に感じること。また、その心。
引用:デジタル大辞泉
肯定的という意味においては、プライドとさほど変わりはないように思われますが、ここでは目的語が明記されていませんね。用例を見てみると、「仕事に対して」とか、「家族に対して」誇りを持つといった表現が目に付きました。つまり、誇りとは、その対象が、プライドの場合のように、自分に限った話ではないということです。
もちろん、誇りを持つのは自分ですから、間接的には、自己の存在に対する一般化された肯定的感情と言えるでしょう。しかし、この場合の、自己の存在に対する肯定とは、例えば、「~という仕事をやりきった」こと自体に対する肯定であり、「~の一員として存在している」こと自体に対する肯定なのです。そこでは、自分に、というよりも、自分以外のものに重点が置かれていますね。これが、プライドと誇りとの決定的な差なのです。
プライドと誇りの違いについて
プライドと誇りの根本的な違い
ここまではよくある話です。それでは、プライドと誇りの違いはどうしてあるのでしょう?実は、プライドと誇りの違いは、その対象が自分であるかないか、ということにあるのではないのです。それはあくまでも表面上のことに過ぎません。より根本的な違いがあるのですが、認識されにくいのでしょう。
それでは、プライドと誇りの根本的な違いとは何か?答えは、英語由来の言葉と日本語由来の言葉という違いです。はい、「何を当たり前のことを」とお思いのそこのアナタ!問題だけを聞けば、小学生のいじわる問題にも思われますが、真面目な話、これがこの問題の本質なのです。
言葉とは、文化的背景を持っています。例えば、「あなた」を意味する二人称も、英語では“you”ですが、日本語には、「あなた」、「君」、「お前」、「きさま」、「おたく」など、様々な呼び方があります。そして、日本語の二人称には、単に呼びかけるという意味以上の情報が含まれています。それは、相手との関係性です。普通、上司や目上の人間に「お前」とは言いません。私の場合は、よほど親しい人間や、後輩にしか使うことはありません。
これは、限られた集団の中で人間関係を重要視してきた日本人の文化的背景によるものです。日本語に、尊敬語や謙譲語などの敬語があるのも、人間関係を重んじてきた日本の文化的背景があるからですね。
言葉の用法的意味が、文化的文脈によって異なるというのは、当然のことです。その国、その地域で根付いている考え方があるのですから。「プライド」や「誇り」という語も例外ではありません。従って、両者の違いは、その国における、「自分」というものに関する、物事の捉え方を比較することで見えてくるのです。
プライドにおける自我と誇りにおける自我
日本に比べて、英語圏の国々では、個が尊重される傾向にあります。ですから、個人の言いたいことは主張するし、心遣いはあるものの、基本的に遠慮はしません。言っていることは、字義通りとなります。いわゆる、京都の「ぶぶ漬け伝説」のようなことはありません。「ゆっくりお茶でも」と言われれば、「ありがとう!」といって誘いを受けますし、「良い時計ですね」と言われれば、「ありがとう!」と言って、喜びます。
(※注. 「ぶぶ漬け伝説」では、「ゆっくりお茶でも」=「早く帰れよ」、「良い時計ですね」=「話長えよ。どんだけ喋んだよ。」などと言われています。現代の京都にはこのような言語文化はあまり見られません。あくまで、都市伝説です。)
そして、個人の権利を高らかと主張します。国としてあるものの、個の存在が一義的となるのです。
一方、日本では、個よりも集団を重んじる傾向がありました。日本人のファーストネームは名字ですし、個人の名前はセカンドネームですね(英語圏の国々とは反対です)。世間様に対して恥ずかしくないよう、迷惑をかけぬよう、家族の一員として、郷の一員として、社会の一員としての個の生き方が問われてきたように思われます。
個を一義的とする社会と、集団を一義的とする社会とでは、個に対する考え方が全く違ったものとなります。個のレーゾンデートル( 「存在理由」や「存在価値」を表す哲学用語)は、前者においては、個自体の内に見出されなければならず、後者においては、集団の内に見出されなければならないのです。
だから、同じく一般化された肯定的感情である「プライド」は個である自我に向けられ、「誇り」は自我以外のものに、例えば「仕事」や「家族」といった個の属する集団に向けられる言葉として用いられることとなったのです。
一応、似たようなシチュエーションで、似たような用法で用いられるから、「プライド」(“pride”)と「誇り」はお互いに訳される関係にあるのでしょうが、 その言葉の根底にある個に対する考え方があまりにも異なるために、互いに似て非なるものとなったわけです。
プライドが高いと損をする
「プライドが高い」と「誇り高い」の違い
「プライド」が、個のレーゾンデートルを個自体に求める社会において用いられてきた言葉とするなら、「プライドが高い」とは、 「自己に対して一般化された肯定的な感情が強い」ということを意味します。
かたや、「誇り高い」とは、自己に対する肯定的な感情が強いのではなく、 「自己が属する集団や関係する他者に対する肯定的感情が強い」と言えます。
(※注. ここからは個人的な好みの話を多分に含みます。)
私が、プライドの高い人間が苦手だと言ったのは、「一般化された肯定的な感情」の「一般化された」のところに原因があります。一般化とは、 「物事に共通して見て取られる事柄を、あらゆることに通じるような考えや法則にまで広めること。または、部分的な構造を全体的な構造にまで拡張させること」を意味します。早い話が、何でもかんでも一般的なものにしようぜって話ですね(かなりざっくりした説明になっております)。
例えば、「tetsuやtamaは女心がわからない男だ」とします。tetsuやtamaを見た女の子が、「男なんてそんなもんよね」と考えたとしましょう。そこから、「結局、男は女心がわからない生き物なのよ」と結論付けるとします。これが、一般化です。「tetsuやtama」という、男というカテゴリーから見れば極めて部分的なものから、「男」という全体的なものにまで、その構造(ここでは性質と捉えても構いません)を広めて、一般的なものにしたということです。
ちなみに、上述の例は、事実としては間違った一般化です(恐らく)。世の中には女心のわかる男もいます(と信じたい)。ですから、「tetsuやtama」を見ただけで、世の中の男の全てが、「女心がわからない」と断ずるのは、早計というもの。正しい一般化とは言えませんね。
もちろん、正しい一般化もあります。「犬1匹と犬1匹を合わせて2匹」、「リンゴ1個とリンゴ1個を合わせて2個」、…という諸々の部分的判断から、「1つの物と1つの物を合わせると、2つになる」という全体的判断へと拡張させる数学的な一般化は、正しいものと考えられるでしょう。
こうした数学のような自明の一般化以外は、あくまで帰納的飛躍による推論に過ぎないので、必ずしも、事実として正しい全体的判断が下されるというわけではないのです。それがポイントです。「プライドが高い」という場合、 何の根拠にも基づかない肥大化した自我に対する肯定的感情が強いことを意味するのです。
一方、「誇りが高い」というときは、根拠付けられることがほとんどです。「これだけ良いものを生み出した」とか、「こんなにも社会的に有意義な仕事をしている」といった、事実に基づく肯定的感情が生まれます。例えば、「メジャーで10年連続200本安打を達成した」とか、「将棋界の7大タイトルを独占した」とすれば、誰が見たってスゴいです。そこに誇りを持ったとしても、そりゃリスペクトされるよ!ってなりますね?
あるいは、ある伝統的な仕事に従事する家系に生まれ、今も伝統を守り続けているとすれば、誇りがあると言われても納得できます。しかし、プライドが高いというときには、そうした根拠付けが希薄になる場合もあるのです。
プライドが高いと損をしやすい
プライドが高い人は、損をしやすいと思います。というのも、機会損失が大きいからです。
行動における機会損失
プライドが高いと、行動における機会損失を招きやすくなります。というのも、プライドが高い人は、「なんで俺様がこんなことをしなきゃいけないんだ」という、意識を持つ事が多くなります。そうなると、なかなか行動しなくなる。または、行動しても、仕事がおざなりになってしまうことが多くなる。
結果として、行動することで将来的に得られるであろう成果を得られなくなる。そればかりか、行動することで得られる技能向上などの機会を失い、成長する機会をも失うことになるからです。何事も、責任転嫁する人間には、反省し、成長する機会は得られませんものね。
人的支援の機会損失
当然ですが、プライドの高い人間には、近寄りがたい雰囲気があります。だって、プライドが高いということは、人に負けたくないという意識が無駄にありますからね。すぐに、マウントを取りたがる。そんな人間が人から慕われるでしょうか?言わずもがなですね。すると、応援、支援される機会が減ることになります。
さらに、人が寄って来づらいから、貴重な情報やアドバイスを得る機会が失われやすくなります。また、そうした貴重なお話を聞く機会が得られたとしても、「何で上から言われなきゃならないの?」と、要らぬ反骨精神をむき出しにすることもしばしば。これではアドバイスが無駄になりますし、「言っても聞かない人にはもう話したくない」と思われることに繋がりかねません。
まとめ
- プライドと誇りの違い
個に対しての考え方、捉え方が違います。プライドは、 自分に対する一般化した肯定的感情。誇りとは、 自分以外に向けられる肯定的感情。元となる言葉の文化的背景が異なるため、同じように訳される語でも、根本的な違いを含んでいることに注意しましょう。
(※注. どちらが良い悪いという話ではありません。)
- 「プライドが高い」と「誇り高い」の違い
「プライドが高い」とは、 間違った一般化によって、事実に基づかない、肥大化した自我に対する肯定的感情が強いことを意味します。「誇り高い」とは、 事実に基づく、自分以外に対しての肯定的感情が強いことを意味します。「プライドが高い」という表現が、ネガティブな意味で用いられることが多いのは、そのためです。
- プライドが高いと損をする
プライドが高いと、人が近寄りがたいため、2つの点から、損をしやすいと考えられます。1つ目が、行動における機会損失。2つ目が、人的支援の機会損失です。何の事実にも基づかないプライドの高さは、知らず知らずの内に、人を遠ざけているもの。人から得られる情報やアドバイスの恩恵を受ける場合には、ある程度の謙虚さが求められるでしょう。しかし、それでいて、誇り高くありたいものです。
by tetsu
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