モンスターペアレント

雑記

教育と医療

 

ある記事を読んで

先日、めったに新聞を読まない僕が久しぶりに目にした記事がこちら。

過労死や長時間労働が多いとされる教員と看護師が「心の病」に追い込まれる原因は、保護者や患者といった外からの圧力や暴力が最も多かったとする調査結果を、厚生労働省がまとめた。学校に無理な要求をする親「モンスターペアレント」などから受ける心理的な負担の大きさが、データで示された形だ。(2018年10月26日 朝日新聞より引用)

朝日新聞のデジタル版でも記事にされているので次を参照。https://www.asahi.com/sp/articles/ASLBV247FLBVUBQU002.html

 

痛ましいとしか言えない。愕然とした。世の中狂ってるんじゃないか?狂ってるのは人間か?システムか?それともこの状況に痛ましさを感じている僕の方か?僕は医療従事者ではない。だから、話を教育関係者に関する事柄に絞りたい。

 

公務執行妨害

まず、この記事を読んで思ったのが「法治国家とは名ばかりか?」ということだ。記事を読むと、この調査対象は「公立の小中高と特別支援学校の23人」の教員だと書いてある。モンスターペアレントなるものから受ける心理的な負担の大きさが、総務省調べのデータとして示さているほどの大きさだというのなら、当然、この教員の方々のお仕事、つまり「公務」に支障があるレベルのものであると察するに難くない。こんなことは、優しく説明すれば、小学生高学年でも理解できる話である。

ならば、なぜ公務執行妨害を適用しないのか?調べてみると、刑法95条にはこう書いてあるそうな。

(公務執行妨害及び職務強要)

第95条
  1. 公務員が職務を執行するに当たり、これに対して暴行又は脅迫を加えた者は、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。

  2. 公務員に、ある処分をさせ、若しくはさせないため、又はその職を辞させるために、暴行又は脅迫を加えた者も、前項と同様とする。

当然だが、公立学校の教員は公務員なので、その仕事(公務)は法によって守られなければならない(私立学校の教員は公務員ではないのでこれにはあたらないということは理解できる。勿論、納得はできないが)。にも関わらず、公務執行妨害容疑でモンスターペアレントが逮捕されたという話はそこまで聞いたことがない(勿論、前例はあるらしい)。

知り合いにも公立学校の教員が何人もいる。一緒に食事をしたりする際に必ずといっていいほど出てくるのが、親に関しての愚痴である。怒鳴り込んでくる親やしつこく電話をかけてくる親などが結構いるらしい。勿論、言わなければならないことは、時には言った方が良い。それが教員の怠慢などで生じたことならば尚更だ。だが、もしそれが教員の精神を蝕むほどの事態ならば、それは明らかに常軌を逸している。

さすがに、暴行を加える者はそうざらにはいないとは思う。しかし、怒鳴り込んできたり、電話であっても、大声で威圧的な態度を取れば、それは脅迫と捉えられるのではないだろうか?だとするなら、速やかに警察の手に事態を委ねるべきだろう。教員の仕事はあくまで子供の教育であって、無理解な親の対応などは含むべきではない、と思う。

 


全体と個

 

デカルトと近代的自我

デカルトは近代の父と呼ばれている。彼が自我というものに焦点を当てた哲学者であることがその所以である。

彼の哲学的態度は方法的懐疑と呼ばれる。それは疑いうる事物はすべて疑うということだ。空に雲が浮かんでいるのが見える。だけど、本当に雲があるかなんてわからない。それに、空だってあるように見えているだけかもしれない。空が青く見えるのも、本当は青くないかもしれない。そもそも、色というものがあるのかさえ本当のところはわからない。それだけじゃあない。目に見えるもの、聞こえるもの、感じるものすべてが夢幻かもしれない。真理といえる確たるものなどあるのだろうか…

およそ7年間もの苦悩の末、彼はある真理に至る。あらゆるものを疑い続けている間、疑っている自分は存在しているではないか!それだけは確実に言える!と。これが、「我思う故に我あり」という彼の哲学的基礎を築いた経緯とされる。この言葉の論理学的意味、あるいは解釈については諸説あるものの、彼が『方法序説』において、認識主体としての自己に基礎を置き、完全なる神の概念の元、幾何学的に宇宙論を展開していったのは確かである。

 

アンチテーゼとしての個人

こうして、理性的主体として、疑いえない精神的存在である自我の意識が一時代の中で芽生え始めた。やがて、社会という枠組みを越えるまでに肥大化した自我の意識が個人のアイデンティティと結びつくこととなる。

近代以前では、個人は社会の一部として規定されていたように思われる。カースト制度に見られるような身分制度による階級社会。そこで求められるのは、個人特有のアイデンティティなどではなく、社会的役割を担わされた存在としての個人だった。例えば、江戸時代の日本においては、個人は、農民や武士としての個人であり、あるいは家長としての個人であった。これらはどれも社会的責任を伴う役割が求められた。一方、現代では、個人における社会的役割はそれほど要請されない。昔ほど厳格な家父長制があるわけでもなく、職業選択の自由も保証されている。

デカルトが確たるものとして自己の存在性にスポットを当てた近代以降、社会という集団の一部としての存在性から、個の存在性は解放されたと言える。しかし、その結果生じたものは、社会のアンチテーゼとしての個人だった。そう僕は思ってる。

肥大化した自我は、もはや社会的役割を要請される存在ではなく、逆に社会に責任を要請するものとなった。過度な権利を主張し始め、保証されることが当たり前という意識でもって、社会を蝕み始めた。その最たる例の一つがモンスターペアレントの出現なのではないだろうか。

 

全体の有機性

全体が、ただ個の寄せ集めではなく、一つの全体的存在として機能するには何が必要なのか?それは各構成要素同士の確固とした連関であり、そのような連関の内に規定される構成要素と全体との調和である。その調和的連関が、全体的存在がその存在を維持していくための必要条件であり、全体的存在が生命を宿すために必要な有機性なのである。

個がその調和的連関から逸脱すると、全体としての有機性は失われる。言わば、癌化した個という細胞によって、全体が侵蝕されるのである。それがあまりに多くなると、全体的存在は生命を失い、その結果として構成要素としての個も消滅するようになる。

おもしろいもので、全体とは単に個を寄せ集めればできるというものではない。人体という一つの全体を考えてみよう。確かに、人体というものは四肢や臓器などに分割可能である。しかし、それらを寄せ集めて繋ぎ合わせただけで生きた人体が生成されるかというと、決してそうではない。メアリー・シェリーの小説に出てくるフランケンシュタインが怪物たる所以はそこにある。

 


優先すべきは個か全体か

 

All for one

今から10年ほど前になろうか。優秀な友人からおもしろい話を聞いた。“One for  all. All for one.”という言葉についてである。僕はこの言葉の意味を「一人は皆のために。皆は一人のために。」と解釈していた(ほとんどの人がそうだとは思うが)。しかし、彼に言わせるとそうではないらしい。確かにそのように解釈できないこともないが、彼の解釈は少し違っていた。

「一人は皆のために。皆は一つの目的のために」

それを聞いたとき、僕は目から鱗が落ちる思いをした。勿論、“All for one”の“one”という目的を「個人」ととると、「皆は一人のために」という解釈も可能だ。だが、僕は視野がより広いという広義性において、“one”を「目的」ととる方が好きだ。

 

全体が先か個が先か

鶏が先か?卵が先か?とよく言われるが、この話は全体と個について考える場合にも当てはまる。全体がなければ個は成立しないし、個がなくても全体は成立しない。あるのは全体が先か個が先か?

人間に限って言えば、社会という全体があって初めて成り立つものだと僕は思う。肉食動物のような爪や牙といった武器もなく、鳥のような翼もない。昆虫のような俊敏性やタフネスさもない人間が生存競争に勝ち残ってきたのは、理性を駆使し、集団によって生活してきたからこそだと考えられる。

ほとんどの人間は社会がなければ生きてはいけない。日々食している様々な食べ物も、漁師の方や農家の方が仕事に励んでいるから、僕たちの口に入るわけである。体温調整が自律的に苦手でも、衣服が着られる。病気をしても医療従事者の方々がいる。交通機関で働く方々がいるから、昔では考えられなかったくらい遠くに短時間でいけるようになった。読み書きできるのも教育してくれた先生や親がいたから。こられすべては、自分ではできないことを社会にいる誰かがしてくれているからこそ、可能なのだ。そうでなければ、日本社会において、最低限度の文化的生活を送ることなどできはしないのである。

 


モンスターペアレント

 

アメリカではヘリコプターペアレントと言うらしい。ヘリコプターのように後ろからくっついてきて常に子を見張っている様を表現したものだとか。一方、日本ではモンスターペアレントと言う。言いえて妙、とはまさにこのこと。確かにヘリコプターというのもわかる。だが、今日の社会において問題となっている「無理解な親」は、やはり「モンスター」と表現する方が正鵠を射たものと言えよう。というのも、社会という全体の中で過度に肥大化した自我という個は、有機性を失いながら尚動き続けるフランケンシュタインというモンスターそのものだからである。

個々の、あるいは個と社会との調和的連関が重要だとはいえ、常に和を乱さず付和雷同することが良いというわけではない。人間にとって社会が重要とはいえ、個を完全に埋没させることが良いというわけではない。このような考えは行き過ぎると全体主義へと繋がり、戦時下における日本のような愚行を繰り返しかねないのだから。

とはいえ、個が他のことを省みずに行き過ぎた主張をしているという事例も散見できる。可愛さのあまり、お遊戯会では我が子を主役にしろとクレームをつける親。運動会の徒競走では手をつないでゴールしろと言う親。少し前の時代なら、世間様に対して顔向けできない恥ずべき行為を平然とやってのけるモンスターペアレントが跳梁跋扈している。そんなわけのわからない“one”のために“All”があるわけではない。

記事を読んで僕が失望したのは対策について、である。記事の最後には以下のように記されてある。

過労死等防止対策白書は、(中略)、今後の対策として定期的な教員のストレス状態の把握や、看護師の心のケアに取り組む必要性を指摘する。

(2018年10月26日 朝日新聞より引用)

必要なのは心のケアか?それでは遅すぎやしないだろうか?なぜ対症療法で済ませようとする?対症療法が時には重要なのは、病気に苦しめられたら経験を持つ僕でもわかる。でも、大切なのは根治じゃないか?

今回問題なのは、教員や看護師が「心を病むこと」ではない。「心の病を生み出させるようなモンスターが存在すること」だ。雑草は根っこから抜かないとまたすぐに生えてくる。親がモンスター化する現象も、元から断たないと、非常識に肥大化した自我でもって、また社会を蝕み始める恐れがあるのではないか。

この際、問題の根っこが「我が我が!」といった「肥大化した自我意識」にあることは言うまでもない。問題となったのがモンスターペアレントの出現であり、それがそのような意識から発現したものだということは容易に察せられる。だからといって、その意識を変えるというのは容易ではないことも確かだ。下手をすれば、思想統制にも繋がりかねない。勿論、そんな事態は避けなければいけない。

肥大化した自我意識から意識改革させることは極めて困難だ。だからといって、心を病んだ後に対症療法的に対策をしても遅すぎないか?人のために仕事を全うしようとする人間が苦しめられなければならないというのは理不尽だ。

記事にもあるように、この問題の難しさは「相手が業務の対象者側になるため、働き手が被害に遭っても我慢し続けることが多い」ことが原因である。確かに、親を訴えた教員がその子供と関わるのは難しいだろう。あるいは、親を訴えられた子供が他の子供から、どのような接し方をされるのかを想像しただけでも、胸が痛くなる。だからといって、子供のために粉骨砕身されている教員の方々が犠牲になるというのは避けなければならない(勿論、看護師の方々に関しても当てはまる)。

我が子の可愛さのみにとらわれた親が法的に裁かれるのであれば、それは子供が可哀想過ぎる。そんな悲喜劇的なことが起きないためにも、我が子を可愛いと思っている貴方と同じように、他の子にも貴方と同じくらい愛情を注いでいる人間がいるということを、人の親となる人間には自覚して欲しい(大抵の親御さんは常識を弁えておられるだろうけど)。少しの思いやりがあれば、このような問題は忽ち霧散する。心の病は、薬ではなく、「思いやり」という心でしか癒すことはできないのだから。

 

 

by    tetsu