論理的思考力養成 実践編① 受け入れること

論理的思考力養成 実践編

これまで論理的思考力養成シリーズでは、論理的に物事を考えるために土台となる重要なお話をしてきました。それらは、どちらかと言えば、理論的なものばかりでした。ここからは、理論というよりも、実践的な観点から、話を進めていきたいと思います。


手段としての論理

 

手段と目的

人が何かを行う場合、〈手段目的〉という意識がとても重要になります

例えば、あなたが「弁護士になる」という 目的(目標、ゴール)を設定したとしましょう。そのためには司法試験をパスしなければなりませんが、そこに至るためには幾つか 手段(方法、道のり)があります。一番メジャーなのは、法科大学院を出ること。法科大学院を出ることで、司法試験の受験資格が得られます。あるいは、予備試験と呼ばれる難関を突破することも考えられます。予備試験をパスすることでも司法試験の受験資格を得ることができます。

勿論、法科大学院を出ることや予備試験をパスすることが、司法試験に至るための当面の目標となります。すると、 そこに至るための手段を考えなければなりません。法科大学院に受かるために、大学で法学部に入るという方法もあれば、自分で勉強するという方法もあるでしょう。自分で勉強するのに、法律を(試験のために)学ぶことのできる予備校に行くという選択肢もあります。

大学の法学部に入学するためにも色々と方法はあります。高校で文系コースを選んで、受験に備え、卒業すること。または、高等学校卒業程度認定試験(もとは大学入学資格検定)をパスすることです。更にさかのぼっていくこともできます。高校を卒業するためには、あるいは、高等学校卒業程度認定試験をパスするためには…

同様に、目標を未来に向けて設定することもできます。「弁護士になる」ということを手段として、「社会的弱者を助ける」という目的を設定しても構いません。いずれにしろ、こういった目的と手段の設定は細かいところまで、決められなければなりません。でないと、道筋が途絶えて目的が達成されなくなる可能性が高まります

逆に言えば、目的と手段を具体的に設定すれば良いのです。そうすることで、やることがはっきりしますね。〈手段と目的〉という意識は、やるべきことを明確にしてくれます。やるべきことがはっきりとしているのだから、あとはやるだけです(当たり前の話ですが)。目的と手段を設定すると、自分の望むものを効率的に手に入れることができるのです。

 

 

手段と目的の倒錯

手段と目的はきちんと設定する必要があります。そして、それを忘れないようにすることです。でなければ、手段と目的の倒錯という事態に直面することとなります。

手段と目的の倒錯が引き起こす問題は様々ですが、精神的なもので言えば、燃え尽き症候群と呼ばれるものがそうではないでしょうか。

法律を学ぶため、高度な学習環境を求めて、難関大学への受験を決めたとします。大学受験に合格するということは、恵まれた環境で法律を学ぶための、手段に過ぎません。ですが、当面の間は、大学入学を目標として、奮闘することになります。

受験勉強をしなければならないのだから、当然、生活時間の大半を勉強にあてることになります。見たいテレビも見ず、遊びたい気持ちを我慢して、机に向かうことになるでしょう。そうやって、一年間の苦労の末、志望校に入学するという目標が達成されたとします。すると、どうなるか?やりきった感が出てしまう。そして、長い間ため込んできた鬱憤を晴らそうと、遊び回ることになります。やがて、自堕落な生活へと向かっていき、将来に向けてやるべきことに対して、やる気がなくなっていってしまう。

その先の目的を設定していなければ、しばしば起こる問題ですが、本来、手段であったものを目的として捉えることでも、このような問題は起こりえます。15年近く、学生を指導してきて、多く見られるケースでした。

 

手段と目的の倒錯という問題は、他にも問題を引き起こすことがあります。「嘘つきのパラドックス」と呼ばれる言葉の問題もそうでしたね。

嘘つきのパラドックス・解決への誘い―クレタ人は嘘つきか?

2018年10月1日

 

一般的な感覚で言っても、お金を貯めるためだけにお金を稼ぐということに、どこか虚しさを感じるのも同じ様なことだと思われます。お金は手段です。お金を使って何かを手に入れるというのが本義だではないでしょうか。それを目的化しても、何も生まれません(もちろん、安心という感覚をお金を貯めることで得ようとして、それを第一義とする考え方はあるでしょうけど)。

 

 

手段としての論理のあり方

論理とは手段です。その構造を知っていれば、実に、便利な手段と言えます。例えば、Amazonなどのインターネットサイトで買い物ができるという構造を知っていれば、便利ですよね?欲しい物が、安くて手軽に手に入れることができます。これに通じるところが、論理にもあるのです。

 

時には、論理自体が目的となることもあります。論理自体を考えようと(ある意味自己言及的ではありますが)試みる場合ですね。論理学などの専門的な分野においては、論理自体に関する真理の探求が目的となることもしばしば。ですが、私たちが日常、用いたりする論理は、あくまで手段としての論理なのです。

 

この手段としての論理ですが、何か効率的に望む物を手に入れるということ以外に、重要な役割があります。それは、前提さえ共有すれば、多くの人間が納得できる事柄に至ることができるということです。

多くの人が「もっともだ!」と言えることを導き出したり、自分が得心行くように考えられる。あるいは、効率的に、望むものや状況が得られる。論理は、そういったことのための手段となるのです。しかし、このような手段としての論理のあり方に歪みが生じる場合があります。それが、己の欲望の実現を第一義として、論理を用いる場合です。

例えば、詐欺などの悪意をもって行われる行為。事実を検証して、突き詰めていけば、それが多くの人間の納得のいくものでないことは明らかです。なぜなら、作り話であるため、事実認定されえないから。事実でない以上、情報の一つ一つをチェックしていけば、それが嘘だとわかる。にも関わらず、ターゲットに事実であると誤認させるために、「誤認させるためには、このようにすればうまくいく」というように、論理を悪用する場合があるのです。

論理の、このような手段としてのあり方は、「多くの人間が納得できる事柄に至る」というもう一つのあり方と矛盾します。ということは、このような恣意的な論理の用い方は、手段としての論理のあり方として、不自然であると言えるのです。

 

従って、論理は、 大半の人間が「もっともだ!」と納得できる事柄を導き出すことを第一義としなければなりません。そうしたことを念頭に置きつつ、論理的思考力を身につけていけば、そうそう騙されることもなくなるでしょう。

 


受け入れるということ

それでは、自分を含めて多くの人間が「確かにそうだ!」と納得できるような事柄に至ることを第一義とした、論理の用い方について説明していきます。

論理的思考を実践する上で、最も重要と言えること。それは、 受け入れるということです。ここからすべてが始まると言っても過言ではありません

単に受け入れると言われると、「何だ、そんな事か」と思われるかもしれませんが、これがなかなか難しい。純粋に受け入れることができる人は意外と少ないのです。それでは、何を受け入れればよいのでしょう?

 

前提を受け入れる

自分で考える場合でも、誰かと話し合う場合においても言えることですが、論理的思考を実践する上で受け入れなければならないものの一つが、前提です。 先ずは、論理という構造の根幹をなす前提を受け入れなければなりません

前提が論理にとってどれほど重要なものかは基礎編⑥の「規定について」でお話した通りです。受け入れる前提によっては、結論が変わりうるというお話はしましたね?その中で、〈10進法を前提とするなら、「1+1=2」となるが、2進法を前提とするなら、「1+1=10」となる〉という例を挙げました。表記法における差異がどれほど本質に関わっているかはさて置き、少なくとも、見かけ上は異なる結論が導き出されたわけです。

導き出される事柄に大きく関わってくるので、論理の前提を規定することはとても重要なことです。ですが、 それよりも重要なのは、その規定した前提を受け入れるということ譬え、前提を規定したところで、何らかの思考や行為の実践の基として、その前提を実際に受け入れられなければ意味がありません

 

自分がどういう生き方をしたいか、ということを含めて、人生設計をすることを想像してみて下さい。例えば、〈人のために奉仕する〉という前提を第一義として生きるのなら、ボランティア活動にあてるプライベートの時間を確保できるような仕事に就いて生きるという選択肢があります。個人事業主として働いてもいいし、アルバイトで生計を立ててもいい。その奉仕の内容が、「人の命を救いたい」というものであれば医師や看護士になることも考えられるし、「社会的弱者を救いたい」というものであれば、弁護士になることも想定できます。ある程度の目標が設定されれば、その職に就くためには何をしなければならないのかが、逆算してわかる。医師になるためならば、大学で医学部に入り、国家試験を突破しなければならない。医師としてのコミュニケーション能力を磨くために、医療現場へのボランティア活動をしてもいいし、人を相手にするサービス業でバイトしてもいい。このように、目標達成のためのより小さな目標が、自ずと細分化されていくことになる。すると、やるべきことが明確になります。このように、自分が将来辿るであろう道筋を構造化することで、効率的に実現していくことが可能になるのです。

道筋を構造化するためには、前提を規定しなければならない。逆に言えば、前提を規定してしまえば、道筋は構造化することができます。ですが、それを受け入れられるかどうかは、また別の問題です。医師になるための道筋を構造化したところで、本人の人生における価値観が、〈教育に携わって、人間的成長を見守る〉というものであれば、その人にとって、その構造化は意味をなさない。自分が実践したい生き方、その前提となる価値観を受け入れられなければ、すべて絵空事で終わってしまいます。

だから、規定した前提を受け入れるということが、実践において、何より重要となるのです。

 

言葉を受け入れる

論理的思考の実践において、受け入れられなければならないもう一つのものが、言葉です。言葉を受け入れるとは、 言葉の意味をきちんと把握した上で、自分のものとして、扱うということ。何を当たり前のことを、とおっしゃるかもしれませんが、これもきちんと丁寧にしなければならないことです。

 

言葉の意味には幅があります。単純に、「青」と表現しても、その色は様々。晴れた日の空の「青」もあれば、青葉の「青」も、辛うじて光の届く深い海の「青」もあります。同じ「青」という言葉にも幅があるのです。

一方、言葉の意味には奥行きもあります。例えば、「数」といっても、偶数もあれば奇数もあるでしょう。序数もあれば、基数もある。素数、複素数、実数、無理数…。あるいは、同じ偶数でも2もあれば、4も6もある。奇数やその他の数においても同じ事が言えますね。それこそ、数え上げればきりがありません。

このように、言葉の意味には幅や奥行きがあるのです。だからこそ、 自分が遣っている言葉の意味はある程度限定される必要があるのです。

 

上の人生設計の例で述べた〈人のために奉仕する〉という前提を思い出して下さい。一口に「奉仕」と言っても、様々な解釈が可能です。人の命を助けるということも奉仕ですし、障害者支援、介護も奉仕と言えます。小さなもので言っても、街の清掃活動も奉仕でしょうし、放課後教育に携わるというのも奉仕の一環です。または、同じ「人の命を助ける」と言っても、ケガ人や病人の命を救うことも含まれますし、新たな命を産み出す手助けをするということも「人の命を助ける」ことに変わりはないでしょう。

そういった幅や奥行きを持った言葉の意味をある程度定めなければ、表されている内容自体が見えにくいですよね?従って、道筋を構造化することもやりにくくなります。ですから、言葉の意味を規定してから、その中でも自分が何を受け入れるのかを意識して、選択するようにしましょう。

 

何度も言いますが、規定と受け入れることは別問題です。ですが、受け入れるためにはきちんと規定する必要があります。言葉の意味を規定してから、実践において、自分が何を受け入れているのかということを意識して下さい。

 

事実を受け入れる

事実を事実として受け入れる

基本的には、前提と言葉を受け入れることができれば、論理的思考は実践可能です。しかし、それらを受け入れるためには、もう一つ隠された受け入れが重要となります。それが、事実の受け入れです。

 

論理における構造化は、前提の受け入れから始まりますが、実践の始まりは、事実から始まります。その事実を受け入れなければ、何も始まりません。だから、受け入れなければならないのです。譬え、それがどれほど望ましくないものであっても。

 

私自身の経験から。

中学生の時までは優等生でした。塾にも行かず、家庭教師もつかず、学校の授業を聴いて、自分で勉強をしていました。それだけで、主要5科目の合計得点で450点をコンスタントに取れるほどでした。副教科に至っては、主要5科目よりも点数が上で、95点未満を取った記憶がありません。5段階評価の成績表は、美術を除くと、すべて5。勉強に困ったことなどほとんどありません(もちろん、努力はしていましたよ)。部活動も県大会で常に上位。絵に描いたような優等生です。

でもメンタル状態があまり良くなかったんでしょうね。高校入学すると、燃え尽きたような感覚になって。人生の目的みたいなものを持てなかった。何もやる気が起きず、勉強も一切しなくなった。成績はみるみる急落。当然ですね。

そんな状態になっても、「自分はやればできる」と、心のどこかで思ってました。でも、肝心のやることができなった。そのままズルズルと過ごしてしまって、成人を迎える頃には「どうしてこんなことになったのか。こんなはずじゃなかった」なんて思うようになってました。まあ何もやらなかったからなんですが。

一応、わかってはいました。自分が何もしてこなかったからこんな状況になったのだと。でも、受け入れることができなかった。だから、しばらくは何もできないでいました。

やがて気づくことになるんです。当たり前のことですが、このままじゃダメなんだって。でも、簡単には取り返せなかった。失われた5年の歳月は後々重くのし掛かることになります。

 

「どうしてこんなことになるんだ」なんて言う人がいます(私自身がかつてそうであったように)。でも、事実に原因を求めても仕方ありません。寧ろ、事実こそがこれから起こるあらゆることの原因となるのです。 そこからすべてが始まるのです

もちろん、反省することも時には必要です。ですが、それに固執してばかりいても、何も始まりません。ですから、事実を事実として受け入れて、それを原因・根拠として、物事を構造化することで、何かを得られるようにすることが、肝要なのです。

 

事実を受け入れるために

事実を事実として受け入れるために必要なのは冷静な視点です。これを持つのが、ひょっとしたら、一番難しいかもしれません。

冷静な視点とは、 事実を認識する際に、プライドや願望を差し挟まない視点のことです。このプライドや願望を捨て去るというのが、冷静な視点を持つ難しさのポイントでしょう。

ローマ帝国のカエサルの台詞と言われていますが、「人は喜んで自分の望むものを信じるものだ」とか「人は見たいものを見る」ということは、実に、真に迫った言葉だと思われます。

見たくないものには目もくれず、聞きたくないことには耳を塞ぐ。人間ですから、ある程度は仕方ないのかもしれません。それでも、そういった精神状態にあるかどうかを意識するだけでも変わってくると思います。

できなかったこと、あるいは、できないことを環境や他人のせいにしても、何も生み出すことはできません。「自分ができないのはおかしい」とか「うまくいくに決まってる」なんて希望的観測を持って、物事を認識するのはやめましょう。

何が事実として起こった(起こっている)のか?そこから何を始めるべきなのか?そういう視点をもって、物事にあたるようにして下さい。

 


まとめ

 

それではまとめます。

 

実践においては何が重要

実践において、 手段と目的を明確にするということが、とても重要なことです!これを見失うと、様々な問題を引き起こす可能性がありますですから、どういう目的があるのか、そのための手段は何か?意識して、実践にあたる必要があります。

 

論理のあり方とは

多くの人が(または、誰もが)納得できる事柄を導き出すのが、論理の役割!従って、このことを手段としての論理の第一義とすること!

基となる事実と照らし合わせると、不自然なものは明らかになります。ですから、恣意的に論理をねじ曲げたり、誤用するのは控えましょう。

 

実践において論理を用いるためには何が必要

論理を用いるために必要なことは主に2つあります。

1.前提を受け入れること

これがなくては何も始まりません。前提を規定し、構造化することは大事ですが、実践においては、どのような前提を受け入れるかを選ばなくてはなりません。

2.言葉を受け入れること

幅や奥行きのある言葉の意味をどのように用いているのかを明確にしましょう。明確にした言葉を受け入れることで、構造化された物事が具体性を帯びることになります。

 

実践するためには何が必要

すべては事実を受け入れることから始まります。それが、どれほど望ましくないものであっても、事実を事実として受け入れることが何よりも重要です。そのためにも、 プライドや願望をなるべく排した冷静な視点から、物事を捉えるように心掛けましょう!

 

どれもやってみると、難しいことかもしれません。しかし、意識して改めるようにしなければ、なかなか身につかないというのも確かです。人間ですから、我が出てしまうこともあるでしょう。ですが、まずは受け入れることから始めて下さい。論理的な力を養うのは、そこから始まるのです。

 

 

by    tetsu