論理的思考力養成 基礎編⑥ 規定について

規定について 論理的思考力養成 基礎編

これまでのお話しをお聞き(お読み)いただければ、論理というものがなぜ有用なのかが、少しでもおわかりいただけたかと思います。しかし、どれほど便利でも論理は万能ではありませんでした。今回は、論理を有効的に用いるためにしなければならない幾つかの規定について、学んでいくことにしましょう。言葉だけを聞くと、何だか難しい気もしますが、気のせいです。丁寧に言葉の意味をおさえていけば、シンプルに理解できるようになりますので。そのためにも、規定という語意をおさえましょう。

規定=物事の手続きをしたり、概念操作をする際に、それに基づいて円滑に手続きや操作が行われるように、予め定められた事柄。

 


論理の規定

 

1つ目が、論理の規定です。名前さえつければ教えた気になったり、やった気になったりするので、あまり好きではないのですが、敢えて名付けるとしたら、そう呼ばれるものです(大切なのは本質です)。

 

当然と言えば当然ですが、話し合ったり、物事を考えたりする際に、何よりも重要なのは(これを第一義的と言います)論理という構造があり、すべてそれに則って行われるという事です。論理がなく、それ故に客観性の保証されない話し合いや思考は単なる感情的なものと堕し、妄想の域を出ない非生産的なものとなるでしょう。

原因があって結果があるという不文律に従って、話し合いなり思考なりを行うことが大切なのです。ですが、単純な事のようにみえて、なかなかこれが難しい。いざ話し合いを試みても、いらぬプライドが邪魔をする。議論して持論を展開したい。人に認められたいという承認欲求が高まる。討論で人を打ち負かしたい。そんな自己実現の欲求が高まる。人が言うことの方が論理的に正しくても、認めたくないという心理が働き、論理をねじ曲げてでも自説を展開する。最悪の場合には、ロジハラなどと言って自己弁護を図る事さえある。そんな事が往々にして行われているのです。

そんな背景には、論理というものを勘違いさせるような環境があったのかもしれません。例えば、試験に受かるために論文を書く。ディベート大会で入賞する。これらはすべて自らを利するための自己実現の欲求に基づく行為です。勿論、こういったことがすべて悪いわけではありません。いずれも高みを目指そうとする行為でもありますし、正しく論理を扱っていることが多いでしょう。ですが、時として、試験に受かるという目的のために、あるいは、ディベートで勝つという目的のためにといったことが第一義とされることがあります。

しかし、本来、論理というものは、皆が(とは言わずとも、それに準ずるくらい多くの人間が)「確かにそうだ!」と言える事柄に辿り着く、あるいは、そういった事柄を導き出すためのものです。自己を利するという事が第一義となってはなりません。それは本来調理のために用いられる包丁を間違って使うようなもので、人を、時によっては自分を傷つけることにしか繋がりません。

共通了解を得るという意味において、人を一つにまとめ上げるべきものが、人を対立させ、分断するための手段として用いられる。何と皮肉で悲しいことではありませんか。そのような事が起こらないためにも、論理というものに対する理解を深めて、論理というものがあるという規定のもとで、事に当たる必要があるのです。

 


前提の規定

 

それでもうまくいかないことがあります。話し合ったり、考えたりする際、心から自分が正しと思っても、共通了解が得られない、あるいは、事実との不一致が起こる。そんな時は、前提が異なっている場合があります。いくら論理というものが客観性を保証する便利さに優れたものでも、前提が違えば、意味をなさないこともしばしば。厳密な数学的表現においても場合によっては言える事です。

 

前回、「1+1=2」の話をしましたね?「1+1=2」は、時間や場所にとらわれることなく、譬え、夢の中であっても成り立つ数学的真理であると説明しました。ですが、実はそうではありません(まあ間違っていると言うよりは、些か説明不足であったと言った方が良いでしょうけど)。

「1+1」は必ずしも「2」になるとは限らないのです。え?そんなことはない?確からしさを何よりも希求したデカルトでさえ、何よりも確かだからという理由で数学的真理によって宇宙論を展開したではないかって?確かにそうです。ですが、それにもかかわらず、「1+1」は必ずしも「2」になるとは限りません。勿論、いじわる問題でも何でもありません。そうです。勘のいい人はお気づきかもしれませんが、実は、「1+1」は「10」になることがあるのです。

私たちが学校で習ってきた(そして日常生活で用いられる)算数や数学は、10進法に基づいています。10進法とは、0~9までの数によって表される記数法です。それだと1の次の整数は2ですから、「1+1=2」となります。ですが、世の中には2進法というものもあります。2進法とは、0と1だけで表される記数法ですが、身の回りで実用されているものもあり、例えば、コンピューターでは2進法が採用されています。2進法では、1の次の数は10となるので(0、1、10、11、100、101…と数は続きます)、「1+1=10」となるのです。

本質的に何か違うのかと問われれば、大した差はないように思われます。ですが、少なくとも、表面上では「1+1」が「2」になったり、「10」になったりすることがあるのです。それは前提となる記数法が違うということ。前提が違えば、どれほど正確に論理を用いたところで、異なる結論が出てくることもあるということです。

 

「1+1」の例で言えば、なぜ異なる結論になるのかはわかります。そして、そのことが容易に察せられます。なぜなら、そこには、感情やプライドといった人間的な要素が入り込みにくい抽象的な論理だからです。それ故、「1+1」について「2」と主張する人と「10」と主張する人がいれば、前提となる記数法が違うのだな、と察しがつきやすい。ですが、これが「より良い結婚生活を送るために」といったような話においてはどうでしょう?

「結婚観」という、ただでさえ抽象的で確かめにくいのに、さらに人によって答えが異なりやすい事柄を含めた話をしたり、考えたりする場合、一致した見解を求めるのは難しくなります。それは前提が異なる場合が多いからです。当然ですが、結婚において、お金を第一義的に考える人と、愛情を第一義的に考える人とが話し合っても、同じ結論を見出すのは難しいかもしれません。譬え、どれほど論理的に話し合ったところで、話が噛み合わないことがある。それはそもそも前提が異なるからです。そして、場合によってはそういった前提の齟齬が見えにくい時もあるでしょう。前提が一致していると勘違いしたまま議論を進めるとそのような事態に陥ることがあります。そこに上述したエゴやプライドが出てくると、何が何やらわけがわからなくなります。最悪の場合、声を荒らげ、議論している相手を罵ることに終始することも(そういった非生産的な場面に、私はよく出くわしました)。 そういった悲喜劇的な状況にならないためにも、まずはお互いが共通了解として認識できるような前提を規定することが第一義的となるのです

 


言語の規定

 

お互いに論理を前提としながら会話をしている。受け入れられるべき共通了解としての前提も確認した。それでも話が噛み合わないことがあります。その場合、問題となるのは言語レベルであることが多いです。これがなかなか厄介なものでして…

 

論理の規定、前提の規定と続き、最後に残されたのが、言語の規定です。言語の規定とは、文字通り、言葉の意味を規定することです。

文章や会話による意志疎通は、基本的に言葉を介して行われるものですから、言葉の意味が食い違っていると、当然、会話も食い違ったものとなり、通じ合うことはありません。話が噛み合わない原因としてよくあるのがこのタイプだと思います。というのも、原因が特定されにくいからです。

 

言葉は普段から用いられるものです。そして、意味を持つものだと考えられています。それも、共通の意味を。確かに、多くの言葉が共通の意味を持つと考えられます。水と言えば、あの無色透明の液体を意味しますし、ボールと言えば、丸いあの物体を意味します。ボールと聞いて、テーブルを思い浮かべる事はありません。しかし、ここに落とし穴があります。

実際は、人によって思い浮かべるボールの具体的なイメージは様々でしょう。弾力のあるものから、硬いもの。掌に収まる程度の小さなものから、スイカ程もある大きなもの。白や青や茶色いものまで、実に色んなボールがあります。競技用のボールの種類も多様です。場合によっては、ラグビーボールのように球形でないものさえあります。

言葉が共通の意味を持つというのは、一種の幻想であるとさえ言えます。にもかかわらず、同じ意味を持つと思い込んでいる。それ故、何が食い違っているのかを考える時に、言葉の意味が食い違っているということに思い至ることが難しいのです。でも、実際は、同じ意味を持つ言葉が違う対象を指し示していることがある。だから、齟齬が生じやすくなるのです。

頭の良い人は、この部分を疎かにしません。かのアインシュタインがある時、記者に「神はいると思うか?」と訊かれて、「あなたの言う神とはどのような存在のことを言うのか規定して下さい。そうすれば、そのような存在がいるかどうかをお答えしましょう」というような事を返したというのは有名な話です。同じ「神」という言葉にも、指し示す対象は様々なのです。そこをきちんと規定してから話すということが大事なんですね。

 

特に、言葉の意味が食い違うということは、抽象的な事柄を取り扱うときに顕著に現れます。例えば、「幸せに生きるためにどう生きるべきか」ということを話し合うとします。「幸せ」という言葉は抽象的であるが故に、人によって様々な形があるものです。「幸せ=お金がある」と思っている人と、「幸せ=愛し愛される人がいる」と思っている人が、譬え、論理的に話し合っても、同じ結論が出るとは限りません。なぜなら、「幸せ」という言葉の意味が違うからです。だからこそ、説得力のある主張をしたり、納得できる結論に至るには、きちんと言葉の意味を規定しておく必要があるのです。

 


まとめ

 

それではまとめましょう。

 

規定って何

規定=物事の手続きをしたり、概念操作をする際に、それに基づいて円滑に手続きや操作が行われるように、予め定められた事柄。

論理的に物事を考えたり、話し合ったりするには主に3つの規定が必要!

1.論理の規定

2.前提の規定

3.言語の規定

 

論理の規定って

論理という構造があり、それに当てはめて物事を考えたり、話し合ったりしているのだ!ということ。それを自覚した上で、見栄だのプライドだのは捨てること!何の役にも立ちません!自己実現のために論理があるのではなく、「確かにそうだ!」って言える事柄に辿り着くためのもの。手段としての論理をはき違えないこと!

 

前提の規定って

考えたり、話し合ったりする事柄や当事者の背景にあるもの。あるいは、基礎をなす土台や立ち位置のこと。どれほど論理的に正しくても、前提が違えば、結論も違ってくる。 受け入れられるべき共通了解としての前提を確認しましょう

 

言語の規定って

言葉の意味を決めること!確かに、 言葉は共通した意味を持つものですが、常にそうだとは限りません!特に、抽象的な事柄については言語の意味が多様に用いられ、解釈される可能性があります!この言葉の意味は○○だという思い込みは捨て、食い違う原因が言葉の意味の解釈にあるのかどうかを確認できる心構えでいて下さい!

 

 

by    tetsu