論理的思考力養成 基礎編④ 根拠について

論理的思考力養成 基礎編

根拠の重要性

 

根拠と客観性

前回は、論理自体が客観性を有するかどうかわからない一方で、論理が客観性を保証する役割を担うというお話をしました(「不条理のジレンマ」を参照)。今回は、その客観性について少し詳しくお話ししたいと思います。

 

客観性とは 誰がみても尤もだといえる、納得のいく物事の性質でしたね。この客観性を保証するものが、物事を捉える際の論理構造における原因としての根拠です。先ほど、「論理が客観性を保証する役割を担う」と言いましたが、より厳密に言うと、「根拠が客観性を保証する」となります。

説得力をもって、誰かに何かを伝える場合、理由を述べるだけでは客観性は保証されませんその伝え方が譬え論理的であっても、です。論理が因果律のとりうる構造である以上、それはあくまで、真であるかもしれない可能性の一つに過ぎないのです。そこで説得力のある伝え方をする(客観的に物事を伝える)ためには、根拠付けが必要となります。

待ち合わせに遅れた場面を想像してみて下さい。待ち合わせ相手にどうして遅れたのかを訊かれた場合、電車が遅れたから、と説明したとします。信頼関係が十分に成り立っていれば、それで納得してもらえるでしょうが、そうでない場合、それを証明する何かが必要となります(仕事などに遅れた場合は欠かすことができませんね)。その「何か」が「根拠」と呼ばれるものです。

根拠とは、物事の成り立ちの拠り所となる事柄です。証拠となるデータや事実のことです。それ故、根拠は客観性を有しているのです。何たって事実ですからね。

遅刻の原因が電車の遅れであることを主張する場合には、根拠となるデータや事実を示す必要があります。例えば、電車の遅れを伝えるニュースであったり、当該鉄道会社が発行する遅延証明書などがそれにあたります。そういった根拠を示すことで初めて、主張は納得をもって受け入れられるようになります。

つまり、

 

〔理由+根拠〕

→【客観性のある主張】

or

【事実の認定】

 

となります。

根拠付けがあって初めて、伝達内容は客観性を持つようになります。いわば、根拠が論理構造に客観性を与えるのです。

 

 

論理と客観性

論理とは因果律のとりうる構造でしたね。論理においては、ある事柄同士が因果の鎖で結びつけられています。原因と結果という枠組みにおいて、繋がっているのです。その因果の鎖を通して、客観性という熱は伝わっていきます。客観的だと認められた原因から、結果へと客観性は伝播するのです。ですから、原因が正しいと認められれば、そこから生じた結果も正しいと認められるのです。そこに論理の強みがあるのであり、論理が客観性を保証するといった理由でもあります。

 

従って、客観性のある主張をしたり、物事を考えたりする場合に重要なのは、世界が因果律によって規定されるということを前提に、事実の因果的構造を捉えようと根拠付けを行うことなのです。

やさしく表現すると、「世の中って原因があって結果があるよねぇ。そういうもんなんだよって世界のあり方を無条件に受け入れて、物事を認識する際に、何が原因でどういう結果が生じたんだろって姿勢で捉えようとする。そうして、ある物事が結果としてあらわれた時は、○○の原因でそうなりましたって示せるようにする」ってこと。誰もが納得して確認できるような形で「□□なのは○○だからです!」って言えるようにするってことですね。

だから、 主張が客観的である必要はありません。根拠さえ客観性を有していれば良いのです。極端な話、客観的な根拠付けが行われていれば、恐ろしいことに、「あらゆる非人道的な行為が善である」という結論さえもが成立することになります(勿論、そうではないと信じたいです)。根拠さえ客観的であれば、そこから導き出される主張も、自ずと客観的になるのです。

 

ところで、前回(基礎編③)の記事で問題となった例文について(以下参照)、

1.水からできた雲が空に浮かんでいて、その雲を構成する水が地球の引力に抗いきれずになったから、その水が雨となり地表に降り注いだ。

2.雷様がシャワーのように細かい水滴を地表に注ぐから、雨が降った。

3.空が泣いたから、その涙が雨となって地表に降り注いだ。

2と3が論理的とは思われないという原因は、根拠が示されえないからです。

そもそも論理を用いている時点で、何らかの客観性は求められていますよね(譬え、自分で考えるだけであっても、自分が納得したいから論理的に考えるわけでしょうし)。ですから、論理に客観性が付き物と思うのも無理はありませんし、これからは文脈的に、そのような意味で「論理」という語を遣うかもしれません(ですが、厳密に言うと、論理自体には客観性はない、というポイントは押さえておいて下さい)。しかし、2と3の例文においては客観性を与える根拠がないのです。

1については、根拠を示すことはできると思います。雲の成分を調べ、引力が地上で働いている物理的なデータを示し、雨が降り注ぐ空の様子を映像で確認することもできるでしょう。しかし、2と3についてはどうでしょう?

2の例文について根拠を示そうとすると、まず雷様という存在を示さなければなりません。よしんば雷様という存在者が確認できたとしても、雨の原因が雷様であるということを示す必要があります。例えば、雷様がシャワーのように雨を降らせている映像などが証拠として求められることになります。現実的に難しいのではないでしょうか?つまり、2の理由に根拠は与えられないということになります。だから、2は客観的ではない、ひいては論理的ではないと感じられるというわけです。

3についても、同じ事が言えます。空が泣くためには、空に目がなくてはなりません。ですが、空は領域を示す語であり、無生物です。無生物に目はないということが受け入れられるならば、空が泣くということがありえないことがわかりますよね?ありえないことを事実として示すことはできません。よって、3の例文も客観性を与える根拠に欠けることになります。

 

根拠が示されえないから、2と3は客観的ではない。従って、論理的に思えないように映ずるわけです。そう考えると、論理構造にとって、根拠が如何に重要かがご理解いただけるかと思われます。

 


根拠の受け入れ方

 

客観性のジレンマ

さて、論理には不条理のジレンマという問題がついて回りました(基礎編③を参照)。実は、根拠についても客観性をめぐるジレンマが生じます。これが論理における一つの限界でもあるのですが。

前にも述べましたが、根拠とは証拠となるデータや事実のことでしたね?この「証拠となる」という部分が問題となります。

上述した待ち合わせに遅れるという例を思い出して下さい。待ち合わせに遅刻した理由は「電車の遅延」でしたね?そして、その理由に説得力を持たせるのが、遅延証明書や遅延のニュースでした。ですが、これらの証拠が証拠として機能しない場合があります。

実は、遅延証明書は遅延が生じたその日に、鉄道会社によっては白紙のまま貰うことができます。遅延証明書の束が改札付近に置かれているので、まとめて何枚か貰っておくのです。すると、遅延した日でなくとも、予め貰っておいた遅延証明書を示すことができるので、遅刻を不正に正当化することができるようになります(よい子は真似しないで下さい)。遅延のニュースについてはどうでしょう?これも、ニュースがフェイクである可能性も否定できません。その鉄道会社のホームページで調べることは?そのホームページが実際にその鉄道会社のホームページである保証がない可能性もあるでしょう。利用駅に直接電話をかけて駅員さんに確認をとってみましょうか?電話に出た人が確かにその鉄道会社の駅員さんである保証がありません。

疑いだしたらきりがありませんが、必ずそうだと言える根拠を提示するのは意外と難しいのです。ですから、どこかで無条件に受け入れなければならないポイントがあるのですが、そこには絶対的な基準があるとは言い難いというのが現状です。要するに、「客観性を与えるのに根拠を示す必要があるけど、どんな根拠で納得するかなんて、結局人によって違うじゃねーか!」ってことなんです。

「どこで納得するかが人によって違うのだったら、どこで受け入れようが同じことだし、信じるか信じないかはあなた次第です!」なんてことにもなりかねません。結局、信用ある人が遅刻の理由を述べても、信用ある人が言ったということで根拠は不要となりますし、信用のない人だとよほど強い根拠を示さない限り、納得されないでしょう。客観性を与えるはずの根拠が主観性の枠から抜け出せない。これが根拠における、客観性のジレンマです。

だからと言って、根拠が不要かというとそうではありません。やはり、根拠付けられた論理の方が客観的になるのは否定できませんし、そのような意味で根拠が重要であることは揺るぎないのです。

 

 

根拠の無限後退

では、根拠はどのようにして受け入れなければならないのか?それは、どこかで無条件に受け入れるしかないのです。

 

待ち合わせに遅れた例で考えてみましょう。遅刻の理由が電車の遅延でしたね。それを証明する根拠として、遅延証明書を提示したとします。ここで納得されれば話は終わりですが、遅延証明書なるものを知らない人間にそれが電車の遅延を証明するものだということをわかってもらう必要があります。

ここでは根拠として提示されたはずの遅延証明書が、論理的に説明されなければならない新たな主張(事実)となってしまったのです。ですから、その証明書が遅延を証明するものだということに対する理由とそれに客観性を与える根拠が新たに求められることとなります。

勿論、遅延証明書に代わる別の根拠を提示しても構いませんが、結論は同じです。やはり、その根拠が根拠足りえる理由とそれを支える新たな根拠が求められることになります。

整理すると次のようになります。

 

主張:「待ち合わせに遅れた」

理由:電車が遅れたから

根拠:遅延証明書 

 

→前出の根拠(新たな主張):「この遅延証明書は電車の遅れを証明するものだ」

理由:遅延した当の鉄道会社により遅延証明書として発行されたものだから

根拠(例):当該鉄道会社の駅員による確認など…

 

根拠の例として、同じ鉄道を利用して遅れた信用ある人が、全く同じ様式の「遅延証明書なるもの」を遅刻の理由として提示した、という事実を鑑みても良いかもしれませんね。

そして、当然のことながら、ここで提示された根拠の事実認定に対する「新たな理由と根拠」が再び求められることになります…。おわかりですね?これ、際限なく続きます。

 

根拠が、物事の成り立ちの拠り所となる事柄であり、証拠となる事実やデータである以上、その事実が事実であると認定されるための論理構造が求められる場合があるのです。それは当の事実の自明さ、あるいは、当のデータの信用度に関わる問題なのです。

仮に、ずっと根拠として納得されないとすると、いつまでたっても主張は客観性が与えられることにはならず、事実認定されなくなります。そこでなされた主張は根無し草のように浮ついたものとなり、説得力を持たないまま忘れ去られることになるでしょう。

根拠が事実である以上、その根拠も事実として説得力をもって受け入れられなければならず、その構造が際限なく繰り返される。これが根拠の無限後退という問題なのです。

 

まあ日常生活において、それほどまでに根拠を求められることは多くはないと思いますが、学問的探求や仕事においては、ある程度遡及的に根拠が求められる場合もあるでしょう。でも、あまりに遡り過ぎると、それはまた哲学の分野になってしまいます。究極的な原因としての根拠を探求するのも良いとは思いますが、日常生活に支障を来しかねないので、そこそこのポイントで無条件に受け入れるということが重要となるでしょうね。

 


まとめ

 

それではまとめます。

 

客観性とは

誰がみても尤もだといえる、納得のいく物事の性質!

 

どうすれば、客観的に物事を考えたり、主張したりできる

根拠付けられた論理構造によって!論理構造自体が客観性を保証してくれるわけではありません。ですから、きちんと納得してもらえるような根拠を添えて、理由説明を行えるように考え、主張しましょう。

 

根拠とは

物事の成り立ちの拠り所となる事柄であり、証拠となる事実やデータのこと!従って、根拠自体が納得のいくように事実認定される必要があります。ただし、際限なく遡及できる(根拠をさかのぼることができる)ので、どこかで無条件に受け入れられる必要があります

 

根拠が論理構造に客観性を与えることには違いないのですが、一方で納得するポイントが人によって異なるという意味で主観性の壁を越えられないというのも事実です。従って、人に理解してもらえるような根拠付けが肝要になります。論理の客観性は根拠付けによって与えられるので、論理的に考えたり、何かを主張したりする場合には、根拠付けを一義的にするようにしましょう。

 

 

by    tetsu