論理的思考力養成 基礎編③ 「考える」とはどういうことか?

論理的思考力養成 基礎編

「考える」とはどういうことか?

 

それではいよいよ本題に入っていきます。「考える」とはどういうことでしょう?こんな質問をすると、大体が「頭を働かせること!」なんて答えが返ってきます。勿論、間違いではありません。ですが、答えとして十分でもありません。頭を働かせることには違いないのですが、頭の働かせ方にも気をつけなければならないのです。

頭の働かせ方には、様々なものがあります。認識する・記憶する・想像する・思考する…勿論、脳の働きはまだ十全的に解明されているわけではありませんから、他にも色んな機能が隠されている可能性も十分にあります。それに、このような区別が完全に適切かというと、そうではないかもしれません。

ですが、ある程度脳の働き方を区別しなければ、考えるという能力は身に付きにくくなります。というのも、これらの脳の働きを混同してしまい、やるべきことが見えにくくなるからです。やるべきことがはっきりとしている方が、目的を達成しやすくなるというのは言うまでもありませんよね?というわけで、考えるための頭の働かせ方を学んでいきましょう。

 

考えるとは、 筋道立てて頭を働かせることです。例えば、「雨が降ったからピクニックは中止になった」、あるいは、「リンゴが落ちたのは地球の引力に引き寄せられたからだ」というように、「□□から○○となる(なった)」という筋道が重要になります。この筋道を少し難しげな言葉で「論理」と言います(なぜ、この筋道が重要なのかは後述します)。ですから、考えるとは、論理的に頭を働かせること、と言うこともできるでしょう。

 


論理とは何か

 

論理的であるということ

「論理」なんて堅苦しい言葉を見聞きすると「何だか難しそう!」なんて思う人もいるかもしれません。ですが、実際は逆です!難しい話を簡単にまとめるためにも論理はあるのです。身に付けられると凄く便利です!論理とは実にシンプルなものなのです。

それでは、もう少し論理について詳しくみていきましょう。先程、論理が筋道だと説明しましたが、より正確に言うと、次のようになります。

 

論理=因果律のとりうる構造

 

「律」とは 掟や定めのことを言います。因果の「因」は原因を、「果」とは結果を意味します。即ち、「因果律」とは、 「原因があり、結果があるという世の掟や定め」を意味し、論理とは、そのような因果律がとることのできる構造そのものを意味するのです。例えば、「雨が降る」という事象について、考えてみましょう。

 

1.水からできた雲が空に浮かんでいて、その雲を構成する水が地球の引力に抗いきれずになったから、その水が雨となり地表に降り注いだ。

 

2.雷様がシャワーのように細かい水滴を地表に注ぐから、雨が降った。

 

3.空が泣いたから、その涙が雨となって地表に降り注いだ。

 

これらは全て、因果律に基づいています。「雨が降る」という結果に対して、それぞれに原因が述べられています。このような構造をとっているという意味において、これらは全て論理的と言えます。

え?1はさて置き、2と3は論理的じゃないんじゃないかって?

いえ、間違いなく全て論理的です。

とは言え、2と3を直感的に論理的と認めたくない気持ちもわからなくもありません。それは論理に対するある種の誤解があるからだと思います。

 

 

論理と客観性

先程の例文の内、2と3が論理的とは認めたくなくなるのは、納得できないからではないでしょうか?確かに、2と3で述べられている原因は到底納得できるものではありません。

誰がみても尤もだといえる、納得のいく物事の性質を客観性と言いますが、2と3を論理的とは認めたくなくなるのは、これらが客観的ではないからでしょう。そこには、論理は客観的でなければならない、という暗黙の了解が見て取られますが、それは誤解です。論理は客観的でなくても構わないのです。

 

考えてもみて下さい。論理が完全に客観的であることなど可能でしょうか?確かに、論理的である科学における主張はある程度は客観的だと言えます。しかし、事実であるという意味において、誰もが尤もだと納得する客観性は持ち合わせていません。それは歴史が証明しています。世界を記述する物理学の理論がニュートン力学から相対性理論へと変遷していったように、新しい発見と共に科学の論理はより正しいとされるものへと変わっていくのです。科学的理論は常に反証の可能性を孕んでいます。細かい話でも、学術論文に誤りがあることなどザラです。つまり、昔は「確かにそうだった!」という理論も、これからも常にそうであるというわけではないのです。

論理的である歴史学における考察もそうです。聖徳太子は絶大な権力を誇っていたわけではなく、その存在を疑う説さえあるくらい。源頼朝や足利尊氏の従来の肖像画も別人のものだそうですし、鎌倉幕府の成立も1192年ではないということがわかりました。私たちが認識する歴史的事実は研究が進むにつれて、塗り替えられていっているのです。そして、そういったことはこれからも起こるでしょう。

 

このように、論理と客観性には直接的な繋がりはありません。ある因果関係が確定的に事実認定されない以上、喩え論理的であっても客観的でない、ということが起こりうるのです。

世界の始まりを、神の創造によるとするキリスト教的世界観も、ビッグバンによってもたらされたとする科学的世界観も、そういった意味では大差ないのです。勿論、客観性に度合いがあるならば、後者の方がより客観的と言えるでしょうけどね。

 

 

不条理のジレンマ

ジレンマ

事実と合致するという意味において、皆が尤もだと納得のいく性質を「正しい」とするなら、論理が常に正しいとは言えません。なぜなら、論理の正しさは論理によって示すことができないからです。

「1+1=2」となることを示すのに、「1+1=2」という事実を証明に用いてはいけませんよね?ある事柄が正しいということを示すのに、その事柄を正しいものとして証明に用いるとおかしなことになります。確実かどうかがわからない事柄を元に話を進めても、結論が確実なものになることはありません。グラグラと不安定な土台の上に積み上げられた理論は、それこそ砂上の楼閣というもの。

 

それにも関わらず、私たちは正しさを求めて、論理を必要とする場合があります。世界を理解しようとする時、あるいは、誰かを説得しようとする時、私たちは論理に頼ります。それは、論理というものが客観性を保証してくれると考えられているからです。

上で述べたように、なぜ筋道が大事なのかという理由もここにあります。話が筋道立っているということで、皆が「なるほど!」といって納得し、その事柄を共有できるからです。話が支離滅裂なら、誰も納得しません。そんな話は荒唐無稽なものとされ、誰かの特殊な思い込みであり、戯言に過ぎないのです。

 

以上のことから、論理というものが自身の正しさを示せないのだから、厳密な意味で十全的に客観性を有しないということは明らかです。しかし、それと同時に、他の事柄についての客観性を保証してくれるものであるということも言えます。これを「不条理のジレンマ」と私は呼びます。

 

不条理

フランスの哲学者、アルベール・カミュによると、不条理とは次のように規定されています。

 

不条理:この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める~中略~願望が激しく鳴り響いていて、この両者が共に相対峙したままである状態

(カミュ『不条理な論証』より)

 

私もそう思います。世界は論理などの理性で決して割り切ることのできない物事に満ち溢れているのではないかと。それでも、何かを明らかにしたいのです。そうすることでその何かを理解したい。だから、人は理由を求めます。それが得心のいくものであれば安心し、そうでなければ、納得できるまで理由を求め続けるのです。

 


まとめ

 

それではまとめてみましょう。

 

考えるとは?

筋道立てて頭を働かせるということ!言い換えると、論理的に頭を働かせるということ!

 

論理とは?

因果律のとりうる構造!原因があり、結果が生じるという世の掟、定めに従って、物事を捉える時のものの見方!

 

論理は何のために

論理自体が正しいとは限らないが、私たちは論理によって納得しようとする生き物!

 

喩え世界が理性によって正確に捉えきれないかもしれないけれども、それでも理解しようとする試み。それが考えるということなんです。常に理由を問い続け、納得しようとする試みでもあります。

というわけで、考える力を身に付けるためには、理由を説明できるように常に心掛ける必要があります。最初はできなくても構いません。ですが、繰り返し練習していくことで、やがて身に付けられるものだと思います。ですから、原因があり、結果が生じるという意識で物事を捉え、常に「なぜ」と問い続けるよう努めて下さい。そうすることで、考える力は徐々に養われていくのです。

 

 

by    tetsu