論理的思考力養成 基礎編② 考えるということ

論理的思考力養成 基礎編

考えるということ

 

考えることができない人

 

「自分で考えなさい」

 

勉強の仕方で悩んだ時、あるいは仕事で行き詰まった時、両親、教師、または上司から繰り返し聞かされた記憶があります。当時は言われていることがよくわかりませんでした。勿論、字面通りの意味はわかります。ですが、正直「 考えるってどういうことなんだ?」って心の中では思ってました。皆さんはそういう経験はありませんか?

当時、若かった僕は頭が悪くて(まあ今でも大して良いわけではありませんが)、よく叱られてたものです。そういうとき、決まってこの言葉が投げかけられたんです。でも、この言葉って難しくないですか?

「右手を上げろ」って言われれば、上げられます。「目を閉じろ」って言われれば、閉じられます。 具体的な内容を伴った指示だと従うのは簡単です。ですが、「考える」ってシンプルな言葉だけど、具体性がないだけに、実行するのは(特に考えることができない人間にとっては)案外難しいんです。

それで、訊くわけです。

「考えるってどういうことですか?具体的にどうすれば良いのですか?」

すると、大体ため息をつかれます。あるいは、せいぜい「頭を働かせることだよ」っていうくらいの答えしか返って来ません。すると、頭の中は???だらけになります。

「考えなさい」と言われて、考えられる人間というものはもともと考えることができる人間なのです。「考えなさい」と言われるような人間に単に「考えなさい」と言ったところで、できるはずがありません(身を持って知っています)。

 

 

考え方を知る

考えることができない人間に「考えなさい」と言ったところで、実行するのは難しいでしょう。「考えなさい」と言われてできる人は、そもそも「考える」ことがどういうことかを考えることのできる人だと思います。ですから、考えることのできない人には考え方(how to think)を教えなければなりません。それが何よりも重要なことなのです。

 

よく魚釣りに喩えられるのを目にすることがあります。悪い教育者というものは釣った魚を与えてしまう。良い教育者は魚の釣り方を教えてあげる、なんてね。

確かに「釣り方」を教えるのは大事だと思います。ですが、ちゃんと教えられる人というのは少ないのではないでしょうか?10数年もの間、塾や家庭教師といった教育関係の仕事に携わってきましたが、その間にこういった「釣り方」をきちんと教えられる人に出会ったことがあまりない、というのが正直なところです(自身が学生の頃も含めると30年近くになるでしょう。勿論、各教科について素晴らしい教えを実践される方はおられましたが)。

大体の人は、「魚を釣りなさい!(自分で考えなさい)」を繰り返すか、どういうことか(どうやって魚を釣ればいいですか?)と尋ねても、「そんなの簡単じゃん、釣り竿と糸と針を使えばいいんだよ(頭を働かせることだよ)」と返ってくるのが関の山です。

 

一口に「魚を釣る」と言っても、魚の釣り方は実に様々です。狙う獲物によっては、針や餌を含む道具類から、釣る場所、深度、時間帯など様々な要素を選択しなければなりません(などと偉そうに申し上げましたが、それほど釣りに詳しくないということをここにお詫び申し上げます)。

大事なのは、「タコを釣るなら~だよ」とか「アジを釣るなら・・・だよ」とか「タイを釣るならーーだよ」とかっていう具体性を伴った方法論なのではないでしょうか? 

そして、釣りとはそもそもどういった原理、仕組みで魚を捕獲することで、このようにして成り立っているんだよ、なんて説明されるとわかりやすいですよね?

 

「考えること」についても同じことが言えるかと思います。考えるためにも幾つかのポイントがあります。そのポイントを押さえた上で、実践を繰り返し、習得していく必要があるのです。そのためにもまずは考え方を、そのポイントを知る必要があるのです。

 


「考えること」の教育

 

考えることを教える難しさ

考えることが、仕事でも勉強でも、時にはスポーツにおいてさえ重要であるにも関わらず、それに特化した教育があまりなされていないのはなぜか?それは 、考えるということが当たり前になされていることだからです。

 

考えることができる人は、自然とそれができる。歩くように。息をするように。瞼を閉じるように。特に意識しなくてもできてしまう。まるで当たり前であるかのようにできてしまう。だから、できない人がどうしてできないのかがわからない。そして、当たり前にできてしまうので、どう教えて良いかがわからない。

歩いたことがない人に、どうすれば歩くことができるようになるか、を教えるのが意外と難しいのと同じです。歩くということはそれほど当たり前の行為なのです。考えることについても同じことが言えます。当たり前にできると思う人には、考えることを教えることはできません。

 

それでも、歩くことを教えるのは比較的易しいと言わざるを得ません(教えられる側に歩くための筋力が備わっていて、運動神経が正常に機能するということが前提ではありますが)。なぜなら、具体的な肉体があるからです。

片足を軽くあげ、前に踏み出す。着地と同時に、もう一方の足を軽くあげ、着地した足よりも前に踏み出す。この一連の動作を繰り返す。これが歩くということです。それを実際に何度も体験させてみれば、歩くという動作を習得することは難しくはありません。ですが、これほど単純な動作でさえ、説明するとなると、ある程度の文字数を要し、手間がかかる。それでも、比較的易しいと言ったのは、目に見える、感じられる具体的な肉体を使ってみて歩くことを経験することが可能だからです。

 

それに比べ、考えるという行為を目に見える形で経験することは難しいです。具体的、あるいは物理的に○○を□□してすればできるようになる、という類のものではありません。目に見える形であれば教えることは比較的容易ですが、目に見えない抽象的な事柄は教えることが難しいのです。

 

 

教育=「考えること」を教えること

 

教育とは本来、「考えること」を教えることだと僕は思います(勿論、社会生活上、人の道を教えることもまた重要ですが)。なぜなら、独りで身につけることが難しいからです(経験上、痛感します)。

知識を教えることは教育とは言えません。知識なんて、必要に迫られれば勝手に身につくからです。英語圏に住んでいて英語が話せない人なんてめったにいませんよね?

かのアインシュタインも教育について、興味深いことを言ったとされています。

(ちくま哲学の森 別巻 『定義集』1990.9.20 筑摩書房発行)

 

 

教育とは、学校で習ったことをすべて忘れた後に、残っているところのものである。

アインシュタイン「晩年に想う」

 

 

思うに、この言葉の意味とは、「学校で習った」知識を忘れた後に残る「思考力」こそが教育によって培われるものだ、ということではないでしょうか?専門的な知識なんて使わなければ大抵忘れるものです。そんなものを教えるのが教育だと言うなら、教育など無意味です。

今日、多くの学校で行われている教育が、一部知識の特権階級層のためのもので、多くの人にとってあまり意味をなしていないのはこのためだと考えられます。

 

 

教わるということ

 

人は様々ことを学習することができます。多くの場合、自らの経験によって人は多くのことを学びます(ごくまれに経験することなくできる一部の天才もいますが)。しかし、自分で経験したことのないことであっても、ある程度習得することも可能です。すなわち、他人の経験から学べるということです。

 

人は複雑な言語を用いることができます。そして、その言語によって、様々な情報を他者に伝えることが可能となります。つまり、自分の経験を他者に伝えることができるということです

例えば、野球での変化球の投げ方。自分の経験からだけで、投球に変化をつける投げ方を習得しようとすると、様々な試行錯誤を繰り返さなければなりません。それには時間と労力がかかり過ぎます。ですが、変化球の投げ方をコーチなどから教わるとどうでしょう?勿論、やり方を教わった後に繰り返し練習しなければならないのは当然ですが、それでも自分だけで変化球を生み出そうとするよりは遥かに効率的です。

 

スポーツだけではありません。数学における定理の証明や、医学における外科手術の方法。将棋や囲碁などのゲームにおける定石と呼ばれる戦術など。先人たちがしてきた様々な経験を教わることによって、 本来自分で経験して学ばなければ得られなかった貴重な知識や方法論を、効率的に習得することができるのです。独学で学べることならまだしも、それが自分の苦手とすることであったり、仮に自ずと身につくことであっても習得するのに長い時間を要したりするのであれば、教わった方が遥かに良いかと思われます。

 


まとめ

 

試行錯誤するのは長い時間と労力を必要とします。その過程は精神面の成長のためにも大事である場合があります。ですが、時には取り返しのつかない失敗をすることもあるでしょう。しなくてもいい失敗ならばしないにこしたことはない、と僕は思います。

 

10代後半の時、自分が何も考えていない人間だったんだと痛感しています。そして、そのことに気づき、考えられる人間になろうと決心してから足掻き続けて、ある程度考える力が養われるまでに、実に長い年月を必要としました。あの時、誰か教えてくれる人がいたならどれほど良かっただろう、と思っています。

 

特に、「考える」という行為は抽象的で、独りでは学びにくいものです。というのも、「考えられる」ようになるには具体的にどのようなポイントに気をつけて実践を重ねていけばよいかということが(実は思考の構造は驚くほどシンプルなのですが)、抽象的であるが故に、みえにくいからです。だからこそ、他者の経験によって得られた知識や方法論から教わることで学べるならば、それに越したことはありません。

これこそが、教育の本懐なのではないでしょうか。

 

 

by    tetsu