「演繹と帰納という思考様式について」―論理的思考力養成―実践編⑥

論理的思考力養成 実践編

さて、論理的思考力養成も、かなりのところまで進んできました。これまで論理的に考えられるようになるための、核となる部分を述べてきましたが、後はそれを実践できるかどうか、ということだけです。頭で理解できても、実践となると、思うようにはいかないのは、何もこのことに限った話ではありませんが。今回は思考様式のお話。

 


思考様式について

世の中には様々な考え方があります。価値観や、場当たり的な判断を入れれば、それこそ千差万別。人の数だけあると言っても過言ではないでしょう。

しかし、その思考の骨組みとなるあり方、つまり、その様式は、以外なことに2つしかありません。あらゆる思考は、その2つの骨組みから成り立っているのです。この骨組みに、あらゆる肉付けを行っていきます。原因を付け、結果を付け、そして、その確からしさを高めるために、根拠で補強します。こうした「原因」や「結果」、「根拠」について、何をもってそうするかは、認識主体に依るところが大きいです。つまり、特殊なもの、人それぞれに異なったものと言えるでしょう。そうして、出来上がった特殊な全体を「思考」、特に「論理的思考」と呼びます。これが、「考える」ということの本質なのです。

「論理的思考」などというと、きちっとしていて厳めしい感じがしますが、常に正しいとは限りません。と言うのも、数学などの学問分野を除けば、原因や根拠は認識主体の判断に依るところが大きいので、人によっては誤った用い方をする場合もあるからです。ディベートや会議の時に、「あなたのロジック(論理)は間違っている」などと言う事があるのは、そこに原因があるのですね。

また、人によって考え方は様々だと言えるのも、ここに原因があります。何度も言いますが、論理的であるということが即正しさを意味するわけではありません。論理的思考力養成の記事で、最初の方にも書きましたが、論理とは、 因果律のとりうる構造です。「とりうる」と書いたのは、それがあくまで可能性の1つに過ぎないということをはっきりと示すためです。

そして、考え方が人によって異なるということは、思考様式の多様性を意味するものではありません。人によって異なるのは、ある事実の原因として、ある事実を結び付けるかどうか、という因果律の捉え方や、ある原因が原因として正しいかどうかを判断するための根拠の捉え方です。思考のあり方が異なるわけではないのです。

 


演繹と帰納

2つの思考様式とは、演繹(えんえき)帰納(きのう)を意味します。論理だとかこういう堅苦しい漢字を見ると、何だか難しそうな感じがしますよね?ご安心下さい。難しげに言われているだけで、本質とは大抵シンプルなものなんです。演繹も帰納も、人によっては普段からしていることを小難しげに言ってるだけです。

ちなみに、直観や閃きを様式と捉えることも可能かもしれませんが、思考とは区別したいと思います。何より、論理的に考える能力は培えますが、直観や閃きといった能力(?)は培われるかどうかわからないからです。正直なところ、個人的には、直観や閃きは極度に凝縮された論理的思考であると思うのですが、本懐ではないので、ここでそれについて述べるのは控えたいと思います。

演繹について

演繹とは

演繹とは、 一般的法則や前提から、個々の事例を導き出すことを意味します。

例えば、目の前にいる生き物が肺呼吸をしていたとしましょう。魚類であるならばエラ呼吸をしますね?ということは、その生き物は、魚類ではないということがわかります。ここでは、「魚類はエラ呼吸をする」という【前提】から、「目の前にいる生き物は魚類ではない」という【個々の事例】が導き出されましたね?

前提だとか、個々の事例だとか、導き出すなんて表現すると、難しげに見えますが、何て事はありません。図式化すると

【前提】/【法則】→【個々の事例】(判断)

と表せます。たったこれだけのことです。もちろん、この前提や法則となる知識が専門性の高いものであったなら、この演繹が正しいかどうか判断するのは難しくなりますし、いかにも論理って感じがしますよね。でも、これはそんな特権階級だけのものではありません。日常生活における判断でも、私たちは、こうしたことを行ってます。

例えば、「電車内の優先座席は、お年寄りや小さなお子さんを持つお母さん、または、体の不自由な方のための席」という、至極当たり前の前提、常識があれば、座るのは遠慮しますよね?仮に、座っていたとしても、目の前にお年寄りが乗って来られる時、満席であれば席を譲る(個々の事例における判断)ものです。こうした、席を譲るという極めて日常的な場合でも、私たちは、演繹という様式を用いているのです。

 

演繹法の弱点

演繹は、実に便利なものです。前提や法則に間違いがなければ、そこから導き出された結論も間違いないものとなるからです。そういう意味では、深く考えずに、機械的に判断することが可能となります。これは、演繹法の強みと言えるでしょう。

もちろん、弱点もあります。機械的に判断することが可能ということは、多くのケースを経ると、あらゆる判断が機械的なものとなってしまいがちということです。そこには疑いがありません。ですから、万が一、法則や前提に誤りがあったとしたら、誤った結論が、自動的に導き出されるということです。当然、判断も誤ってくる。つまり、演繹的に判断する場合、その前提となる知識や法則性に、間違いがないかどうかを慎重に判断する必要があるということです。

帰納について

帰納とは

帰納とは、 個々の特殊な事例から、一般性のある形式乃至規則や理論的前提を導き出すことを意味します。まあ、簡単に言えば、法則性がないかなぁ?という視点から物事に接していくことです。

例えば、何か生き物の一般性を探すとします。そこで、生き物を一匹一匹(個々の事例)観察します。すると、エラという器官を使って呼吸するものと、肺という器官を使って呼吸するものと、それ以外のものとに分けることができたとしましょう。そこで、エラ呼吸するものが「魚類」である(法則性)と決めるのです。もちろん、魚類の属性は幾つもあるでしょう。水の中を泳ぐ。ヒレを持つなど。そういった属性の集まりとして、「魚類」という一般性を決めるのです。

この一般性が事実としてあるかどうかは、厳密な意味ではわかりません。少なくとも、我々にとって(あるいは、個人によっては)、そのように認識できるというだけです。より、専門的な話になると、哲学の分野に踏み込んで行かねばならないので、ここでは割愛させていただきます。

一般性の話がわかりにくければ、次のように考えてみましょう。「魚はどのように呼吸をするのか」という問題を確かめようとすることにします。そのために、色んな魚を、実際に目で確かめて、観察します。すると、観察した全ての魚がエラ呼吸をしていることが確認された。その経験的事実から、「魚はエラ呼吸をする」という法則性を判断するのです。つまり、演繹のときとは、逆の判断が行われるわけですね。

【個々の事例】(判断)→【理論的前提となりうるもの】/【法則性】

少々極端で乱暴な表現をすると、「見た感じ、みんな○○だから、□□なんじゃない?」と決めつけてしまうということです。もちろん、事実と反することを頭から主観的に決めつけるというわけではありませんが、一般性の話と同じように、それが確かなことかどうかは、厳密な意味においては、わからないのです。

帰納法の弱点

帰納法は、とても重要なものです。思考様式の基本と言っても過言ではありません。何かについて考える際、取っかかりとなる思考様式です。

一般的な法則性がわかっていれば、演繹法を用いることで、物事を合理的に推し進めることができます。しかし、そのような法則性が、常に与えられているとは限りません。そこで、帰納法の出番です。 考える対象に関する様々な事柄を観察し、そこから、法則性を導き出すのです。そうして、導き出された法則性に基づいて、判断を下していくことなります。その段階で、推論過程に問題がないにも関わらず、現実と結論との間に齟齬が生じれば、その法則が間違っていることになります。その時は、再び、新たな法則性を求めて、物事と向き合い、観察していくしか仕方がありません。そして、確かに現実を表すものとして納得がいけば、それが法則として規定されるでしょう。

しかしながら、それが法則として確実なものかどうかはわかりません。帰納とは、 経験的事実に基づいて、理論的前提となる知識を発見しようとする試みです。従って、発見された法則性は、あくまで 経験的事実において確認された共通点から導き出されたものに過ぎないのです。そして、人間は、有限な存在です。つまり、有限である経験的事実から、あらゆる無限の事柄に当てはまる法則を導き出すことは、ほぼ不可能なのです。

ここで、「ほぼ」といったのは、いわゆる数学的帰納法と呼ばれる推論過程があるからです。数学的帰納法においては、無限の事柄に当てはまる法則を導き出すことが可能です(尤も、それさえも数学的前提を受け入れてはじめて成立するものですが)。

このような例外を除けば、あらゆる事象について、確実にそうだと言える法則を見つけるのは至難と言えそうです。事実、物理学や科学の歴史は、整合性の観点から確実と思われた法則性に誤りが見つかり、それを正すために、また新たな法則を見つけようとする試行錯誤の繰り返しと言えます。

人間という存在が有限だから、経験することも必然的に限りがあります。従って、全ての事柄において、確かにそうだと確認することは不可能です。そのため、帰納法によって、判断される物事の法則性は、あくまで経験的事実の範囲に限られたものとなるので、法則(と判断されていた事)が間違っている場合もある。そこに、帰納法の弱点があるのです。

 


まとめ

演繹とは

前提となる事柄が正しければ、導き出される結論と、それに基づく判断は正しいものとなる。それが演繹法の強みですが、その前提に対する疑いを忘れてしまうと、思わぬ落とし穴に嵌まることも!前提を受け入れるためには、慎重さも重要です。

 

帰納法とは

個々の特殊な事例から、一般性のある形式乃至規則や理論的前提を導き出すこと!

問題解決には、不可欠な思考様式です。前提として、正しい法則が見つかれば、様々な事柄に対して、有効な判断が、演繹法によって可能となります。しかし、その法則性は、経験的事実によってもたらされたものであることから、間違いを含むこともしばしば!導き出された法則性に対する反証可能性を、十分に吟味する必要があるでしょう。

 

 

by    tetsu